『礼拝の生活』再考、その26

1970年12月6日
『礼拝の生活』25号

(巻頭言)「三度12月19日、20日について」 
 12月19日、20日の集会の目的は、主なる神を賛美、礼拝することにあります。この意味では、決して特別集会ではありません。すべての集会が、根本において主なる神を賛美、礼拝することを目的としているのですから。
 また父なる神を賛美、礼拝する群として青梅の地に生きている私たちは、元々、青梅の光、青梅の塩なのです。特別集会を開くから、何か活動するから、私たちが青梅の光、青梅の塩となるわけではありません。
逆です。神の恵みによって青梅の光、青梅の塩とされているので、その現われの一つとして、今度のような集会を計画し実行するのです。
 特別集会という名称のために、いつでも、どこでも、青梅の光、塩なのだという本来の使命を忘れないように注意する必要があります。 
 
 ではどのような意味で、特別集会なのでしょうか。
それは、群全体が一致して、集中的に使命を果そうとするからです。日を定め、目標を定めて、具体的に一致して集中するのです。しかも私たちの生活の中で一致と集中を実現しようとしています。その意味で確かに特別集会です。
 今、残された十数日間、集会のために祈り続け、家族、友人、知人に集会案内を手渡していきましょう。マスコミならぬ、口コミを大いに用いていきましょう。そして、一致と集中が何を意味するか、私たちの分に応じて体験していきたいものです。極自然の中に、特別な意味で。

★特別といつでも、どこでも・一般の関係は、大切です。
この両面を「同時に」に視野に入れる意識的な営み野積み重ねは、聖書の読み方にも深く関わる事実を覚えます。
 神様からの特別な啓示の書である聖書。
しかし神様からの啓示は、特別啓示の聖書だけでなく、聖書以外の自然などを通しての一般啓示もあり、この両者の関係をどのように受け取るかは、聖書理解を豊かにするかどうかに深く関係して行くことを覚えます。
 特別啓示である聖書だけに閉じこもることの狭さ、特別啓示である聖書の導きの必要性を認めない高慢、その両面を避け、本来の道を進むため、普段から特別と一般の関係を大切にしたい、あれから40数年後も同じ方向で考えています。