『礼拝の生活』再考、その25

1970年11月29日
『礼拝の生活』24号

(巻頭言)『パウロの祈り』 
ピリピ人への手紙1章9節下に、ピリピのキリスト者・教会のために使徒パウロが祈っている祈りの内容を書き記しています。
 「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」(新改訳)と使徒パウロは祈っています。
 
この祈りを通して、キリスト者・教会は本来どうあるべきであると使徒パウロが理解していたかを知ることが出来ます。キリスト・イエスにあってピリピの人々の中に注がれた愛が、真の知識とあらゆる識別力(信仰的センス)によって、「いよいよ豊かに」なるようにと、パウロキリスト者像を描いています。そしてピリピのキリスト者が、真にすぐれたものを見分け・判別することが出来るように目標を明らかにしています。
 
私たちの環境、いやさらに私たち自身の状態が、このパウロの祈りを真剣に考慮するように私たちに迫っています。日々の生活の中で私たちが求められているもの、それは識別力、洞察力です。真にすぐれたものを見分ける信仰の目です。私たちの生活が一方では単調なものであり、同時に多忙なものであることを思えば、パウロの祈りは私たちの祈りであるべき事実が、一層明らかになってきます。今、この青梅で、パウロの祈りを私たちの祈りとして祈っていきましょう。

パウロの手紙に含まれる祈りの重要性に意を注ぎ、祈りの内容と手紙の主旨の絆を大切にしながら手紙を味わい進む道。この道は、次第に私の営みの中で確立されて行きました。
私にとり最初の本格的著述であるⅠテサアロニケ人への手紙(『新聖書注解』新約3、1972年、いのちのことば社)において、明確な歩みを踏み出しています。
 Ⅰテサロニケ5章23−28節の結びの箇所で、5章23−25節をパウロの祈りと祈りの訴え見ます。
その上で、5章22節までの「勧告は人の力によっては実現不可能なことをよく知っており、今や、力の源なる神ご自身に祈る」とパウロの文を読んでいます。
 24節については、「パウロは祈りつつ、祈りの確信を披瀝する。」
 25節、「神の真実にすべての信頼を置くパウロは、今、テサロニケ教会(そして青梅キリスト教会・・・)に、自分自身のためにも祈りを求める。神の絶対主権の下に推し進められていく使徒の職務は、神のみこころをわきまえ知った教会の祈りを通して、歴史の流れの中で成就されていく」
 パウロの祈りと手紙の堅い結びつき基づくパウロの手紙の理解から、祈り、考え、書き、生きかされるキリスト者・教会の道へです。