『礼拝の生活』再考、その20

1970年10月18日
『礼拝の生活』第19号

(巻頭言)「文書委員会の使命」
10月4日の臨時総会で、下半期へ向っての展望の一つとして、新しい歩みをなす決定をした文書委員会の使命について考えてみます。
この場合も、教会とは一体何か基本の確認から出発する必要があります。まず私たちが教えられ続けていることは、教会は単に教会堂・建物を意味しないこと。また日曜日に集まる主日礼拝だけが教会でもありません。あらゆる集会は、教会の一つの目に見える大切な現れです。そうであっても、それが教会のすべてではありません。
では教会とは一体何なのでしょうか。エペソ人への手紙4章15、16節に従えば、教会とは、生きた、成長し続けるキリストの体であり、私たち各自は一つの体の肢体なのです。
「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

毎日の現実生活では、電車の中でもみくちゃにされたり、組織の中であたかも機械の一部分のようであったり、台所の小さな世界で大部分の時間を過ごしたり、それは、千差万別の場で生き続ける私たち。このような私たちの中で、私たちを通してキリストの体なる教会は生き生きと存在し続けます。さらに一歩進めて言えば、私たち各自が、キリストの体として生きている場で、頭なるキリストが共に生き、共に苦しんでおられるのです。無力に思われ、失敗だらけの私たち。自ら苦しみ、十字架で死なれ、復活し、昇天した勝利のキリストの御霊が、その私たちの中に、その私たちと共に働き続けられるのです。これが教会です。

このように教会の本質を理解する時、文書委員会の使命は明らかになってきます。文書の働きは、キリストの体の肢体と肢体を結ぶ神経の役目を果します。私たちは、常に、顔と顔を合せていることは出来ません。いや、そうしてはならないのです。キリストの体なる教会の一肢体として、主なる神から与えられている使命を私たちが現実的に果して行くためには、家庭や職場などそれぞれの場で、恵みを見上げつつ、絶望することなく思い上がることなく、キリストと共に生きていかねばなりません。
だとすれば、文書が神経として、一肢体の喜びを全体に、一人の涙を全体に伝える使命がどれ程大切か明らかです。敏感な神経としての働き、これが文書委員会の使命です。

★再考
実際の文書委員会の出発は、とても小さなものでした。最初は、A姉妹と私の二人だけだったと記憶しています。
 A姉妹は、「私女中」と独特の自己紹介をなさる方で、各集会で私が話した内容をほとんど文字どおりに書き留め、次の週に清書したものを手渡してくれたのです。
この営みと文書委員会の細々とした歩みは、密接に関係していました。
三つの神学校と一つの大学で教壇から語ったことすべては、教会の講壇から宣べ伝えた説教を基盤とする説教者のことばであった背後に、A姉の忠実な助けがありました。

十数年間書き続けられたかなりな枚数を、私は青梅から沖縄まで持ち運んだのです。
沖縄移住後比較的短期間に、『申命記講解』を書き上げることが出来たのは、青梅キリスト教会の聖書研究会・祈祷会でモーセ五書の循環的な通読により蓄えられた
モーセ五書全体の有機的な結びつきに対する確信と共に、
②A姉と私の合作とも言うべき素朴な資料が少なからぬ助けとなったからです。

 恵みの波紋は、なお静かに音もなく広がります。
6月25日に、宮村武夫著作2『礼拝に生きる民 説教・注解申命記』(ヨベル)が刊行予定。説教は、1986年4月に沖縄へ移住する前2年間月に一度、無牧の首里福音教会へ送ったテープ説教に基づきます。

昨日、A姉と同郷(秩父)、同じく80代のK姉と電話で話している中でうれしいニュース。施設に移られているA姉は、E姉の愛労で毎週青梅キリスト教会の主日礼拝に出席、喜んでおられると、感謝。