『微妙―しなやかに、かろやかにー』

2011年11月13日
小海キリスト教会 主日礼拝
                        
『微妙―しなやかに、かろやかにー』 
マルコ2章23−28節 
[1]序
 父、御子、御霊なる三位一体の神の御名を崇めます。
(1)今朝、小海キリスト教会の主日礼拝に参加できる喜び。
そもそも主日礼拝の驚くべき恵み。主日から主日への生活・生涯。

(2)今朝マルコ2章23−28節を中心に、主のみことばに傾聴します。
 参照マタイ12章1−8節
   ルカ6章1−5節との比較、大部分三福音書類似、共通。
しかし、以下の二点においてマルコの福音書に鮮やかな特徴、この二つの特徴に集中。

[2]マルコ2章27節、マタイ、ルカにはない。
「また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」
(1)以下の①と②両者の間には微妙な、同時に決定的な違い。
①「安息日は人間のために設けられたのです。」
②「人間が安息日のために造られたのではありません。」
人間を主義、組織などいかなる非人格的なものの手段とは断じてしない。
人間を自己の目的の手段に乱用しようとするものと主イエスは闘い、奴隷状態にあるものを解き放ち自由にする。参照ガラテヤ5章1節、13節。
ガラテヤ5章1節「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放・・・
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないように」
ガラテヤ5章13節「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」

(2)前後関係を大切に
人間、鍵のことばに注意しながら前後の文脈を見ていくと、マルコ1章16−20節、主イエスが最初の弟子たちを呼び出される記事が私たちの注意を引き付けます。
「わたしについて来なさい」(1章17節)→主イエスに信従。
「人間をとる漁師にしてあげよう」、主イエスの約束。主イエスの弟子とは、人間をとる漁師に他ならない。そうです。キリスト者・教会とは、人間をとる漁師。

[3]マルコ2:28 「人の子は安息日にも主です。」
マタイ、ルカにはない、微妙な付加。
マタイ12章8節、「人の子は安息日の主です。」
ルカ6章5節、「人の子は安息日の主です。」

[4]集中と展開
(1)集中
①あくまで主イエスに解き放たれ自由にされる「人間」が中心。
テオピロ一人のために、ルカの福音書使徒の働きを書くルカの心を、目前の一人の人間の存在が占めていたように、私の心も一人の人間に集中できるように、主よ。
②「にも」このとこき、この場でキリストの主権を確信、従い、宣言→本来の人間・私らしい私の生活・生涯。

(2)展開
人間をとる漁師
① しなやかさ、パウロの実例,実践に見るしなやかさ
Ⅰコリント9章19−23節
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

②主イエスの約束なさるかろやかさ
マタイ11章28−30節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」