『礼拝の生活』再考、その17

1970年9月27日発行
礼拝の生活」16号

〔巻頭言〕『展望と反省』 

臨時教会総会において上半期の歩みの深い反省がなされ、また下半期の歩みの確実な展望が与えられ、的確な歩みをなし続ける備えをと心から願っております。   以下私たちの反省と展望の基盤をもう一度確認したいのです。
 
再確認すべき最も大切な点は、聖書に聞き従うことの根源的重要性です。
唯一の、生ける、真の神が語り、神の民はこの語りかけに聞き従ってのみ生きることを聖書は一貫して主張しています。
ですから、私たちがキリストの体なる教会であるとは、神の言葉に聞き従う神の民であることに他なりません。それで私たちが第一に顧みる必要があるのは、この6箇月神の言葉によって本当にさばかれ、また立たされてきたかの一事です。
神の言葉によってさばかれるとは、聖書を通し神の御旨が示され、私たちの自分勝手な思いが明らかにされ、否定されることです。
 さらに神の言葉によって立たされるとは、神の言葉の中に提示されている恵の事実が、自分勝手な思いを否定された私たちの中で生きることです。主日礼拝その他の集会で、本当に神の言葉が解き明かされたであろうか、そこで本当に神の言葉が聞き従われてきたであろうかを痛みを感じつつ再吟味し続ける必要があります。
 さらにキリストの体の肢体として生きる一人びとりが個人的に聖書に聴く機会、つまり日常生活の中で個人的に聖書に聞く課題についても考えるべきです。
 もう一つの課題は、教会の豊かさについて、この6箇月どのように理解を深め、自らどのように体験してきたかの反省です。具体的に云えば、主日礼拝において互いに顔を合せるのをどれ程大切に考えてきたでしょうか?聖餐式は、私たちに何を意味してきたでしょうか?各自の毎日の生活が兄弟姉妹にとって、また兄弟姉妹の日常生活が、私たちにとって何を意味すると自覚してきたでしょうか?
 教会は、存在として豊かさを与えられているばかりでなく、実際的な働きの上でも豊かさを持ち続けるべきです。一人びとりに与えられた賜物が全体の益となるように用いられることこそ、私たちの目標です。執事会、役員会、教会学校教師会、青年会などそれぞれ特別の目的を与えられた集りです。しかしそれら凡ては、教会全体のためであり働きです。
 私たちは、キリストの教会が本来あるべき豊かさ、持つべき豊かさを見据え続けます。そして現実のあらゆる弱さや醜さに直面しても逃げ出したり、投げ出したりしないのです。それぞれの与えられた賜物を生かし、教会全体の成長のために働いていく。
 働きの種類は様々です。しかし凡ての働きは、同じ一つの目標を持ちます。このように教会の豊かさの体験とは、実に限りない課題です。幸いにも、私たちは一個の地域教会としてばかりでなく、日本新約教団の中で、この課題を求め続ける特権を与えられています。一人びとり自らを顧みて見るべきものを見、各自に与えられた立場にあって逃避することなく、着実に生き働きたいのです。
 
 最後に、キリスト者・教会が世の光、地の塩としての使命を与えられている事実に即して、この6箇月の歩みを私たちは反省する必要があります。青梅キリスト教会の名の如くに、青梅の光、塩として生きてきたかどうかを反省する時、今さらながらに自らの弱さを痛感させられないでしょうか?光として、塩としての働きは、キリスト者各自の日毎の歩みの中でなし続けられていくことを鋭く見抜く必要があるのは、云うまでもありません。しかし同時に、教会全体として、青梅の地域に住む人々に対して、どのような使命を与えられているかを考えねばなりません。この6箇月の歩みにおいて、世の光、地の塩としての教会のあり方の自覚と実践に関して、多く欠けているところがあったのではないかと思われてなりません。12月19日、20日の市民会館での集会へ向っての歩みが、与えられた大きな使命の小さな実践となることを願っています。聖書に聞き従い、教会の豊かさを体験するのは、自らの存在に自己満足するためではなく、キリスト者・教会が世に遣わされている主にある目的を、さらに深く知る必要があります。
 以上のような反省を通して、私たちの前に進むべき道が展開されていくと確信します。
 私たちの群全体がより鋭く神の言葉に聞き従う姿勢を整えていきたいものです。狭い意味で聖書を知るだけでなく、聞き従う意味での研鑽が求められています。キリストの生きた肢体として機能を発揮することが求められています。世に対する大胆な、しかし同時に平凡な働きも。
 10月4日午後臨時教会総会、共に祈り、考えましょう。
 
★聖書と教会の関係について、1970年の時点で、確信に満たされていた一事を確認でき、それはそれなりに感謝です。主の教会にとり必要不可欠な基盤ですから。
 しかしこの一事に徹する時、単に「聖書を」読みだけでなく、「聖書で」読む営みがなくては、聖書を真に読んだことにはならない。
 青梅での歩みの、沖縄での継続が「沖縄で聖書を、聖書で沖縄を」であると悟ります。
ですから、今、この時点で表現するならば、「青梅で聖書を、聖書で青梅を」なのです。
林牧師を中心に、このことが青梅キリスト教会において展開されおり、感謝です。
 もう一つは、徹底的な聖書信仰と不可分な徹底的な聖霊信仰。この両輪についての導きについては、別の機会に確認したいのです。