『この方の栄光と恵み』

『この方の栄光と恵み』
 ヨハネ1章14−18節
[1] 序
①Ⅱテモテ2章8節の前半、「ダビデの子孫として生まれ」に意を注ぎ、主イエス受肉・恵みの事実を主に私どもの心に刻んで頂くことを、切願しつつ、
ヨハネ1章14−18節から、『この方の栄光と恵み』との主題で宣教。 
 主イエス受肉・恵みの事実、そうです、クリスマスのできごと、
「キリストが私たちと同じになられた。私たちがキリストに似るものとなるために。」、この恵みの事実をしっかり受け止めたいのです。

ヨハネ1章14−18節において、まず14節の「私たちの」と「私たちは」、16節の「私たちみな」に注意。
 これらの「私たち」は、ヨハネ福音書を最初に読んだ人々を指すことは、明らかです。
しかし同時に、この「私たち」には、いつの時代、どこの場所でもヨハネ福音書を読む人々も含みます。
さらに、そうです、今現にヨハネ福音書を読んでいる「私たち」も喜びの交わりに招かれ、呼び入れられているのです、ハレルヤ。

[2]14節の「私たちの」と「私たちは
(1)「ことばは人・肉となって、私たちの間に住まわれた。」
ロ−マ1章3節、
「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、」

ヘブル2章17,18節、
「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

ヘブル4章13節、
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
☆これこそ、まさにクリスマスのできごとです。

(2)「私たちはこの方の栄光を見た。」(ヨハネ1章14節)
 福音書記者ヨハネは、「私たち」・最初のヨハネ福音書の読者が「この方の栄光を見た。』と言い切っています。
 そうです、今現にヨハネ福音書から聴いている「私たち」もまったく同じです。見る責任と特権が与えられています。

(3)では「この方の栄光」とは、どのような栄光なのでしょうか。
「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」(ヨハネ1章14節)、
また「父のふところにおられるひとり子の神」(1章18節)の栄光です。
なによりもヨハネ福音書の最初1章1−5節において美しく描いている驚くべきことばで明にしています。
さらに主イエス・キリストご自身が明らかにしています。
ヨハネ17章1−5節をお読み願います。特に5節に注意。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
クリスマスを真に祝うためには、三位一体の神への賛美が不可欠です。
またクリスマスの恵みの出来事は、三位一体の神への信仰告白への最高の導きです。

[3] 16節の「私たちみな」
(1)「私たちはみな、・・・恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
 結論だけを。最初の恵み、罪の赦し。
       さらなる恵み、永遠のいのち(ヨハネ17章3節)

〔4〕集中と展開
(1)集中 
「ことばは人・肉となって、私たちの間に住まわれた」このお方から、「目を離さない」(ヘブル12章2節)。「この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1章14節)。「この方の満ち満ちた豊かさの中から」(1章16節)→「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。伝道・宣教の基盤。

(2)展開
主イエス受肉の恵みにより与えられた豊かないのち、生活・生涯の実際を示す、へブル13章1−6節、「自分も肉体を持っているので」を手がかりに味読。

主イエスは、「からだをふくむ人間の全体、その意味で真の人となられたのです。それはからだを含む私たちの全存在が救いに与るため。」
使徒信條の頂点・「……罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。」