『礼拝の生活』再考、その9

1970年7月26日発行
『礼拝の生活』第8号

(巻頭言)「成長させてくださる神」
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それて、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」(Ⅰコリント3:6、7新改訳)
 青梅での生活も、もう3ヶ月以上になります。この期間、もみの木幼児園の子供たちをみていて一番強く感じることは、彼らの成長の事実です。一人ひとりの子供の成長は勿論のことです。さらに園の子供全体、各年代グループとしての成長と表現せざるを得ない実体、彼らの中に満ち満ちている力の存在に、改めて驚かされます。このように子供たちの成長し続ける姿を目にしながら、上記のコリント人への手紙の言葉を考えさせられています。
 一口に子供の成長といっても、その背後に多くの苦労が払われています。まず何よりも両親の苦労。改めて言うまでもありません。子供の成長のために払われている親の苦労、これは計画とか計算を離れたものです。幼児園の四十名の子供たちの、一見平凡に見える日々の成長のために、親は気の遠くなる程のエネルギーを費やしています。また幼児園の先生の働きにしても、単純にそれは仕事だと言って割り切れる性質のものではありません。
 
確かに子供たちの成長のために、植える者や水を注ぐ者、その他多くの人々の苦労が払い続けられています。しかしそれらの苦労は、成長させて下さる神を認める時、自らの限界を知り、分をわきまえて本来の尊い使命を果すことが出来ると聖書は主張しています。   

その半面、成長させてくださる神を認めず、自分が子供を産み育て成長させているのだとの考えが親の気持ちを完全に支配する時、子供は親の所有物と見る危険が生じてきます。親が子供を自分の所有物と考える程、親にとっても、子供にとっても悲劇はありません。成長させてくださるのは神なのだとの信仰告白は、親が自分の限界をわきまえて、子供を独立した尊い人格として認め続けるために、大切な導きを与えてくれます。
 
また、成長させてくださる神という告白は、親に落ち着きを与えてくれます。あれこれの小手先の教育法にばかり気を奪われるのではなく、子供たちの中に満ちあふれている成長力にまず驚き喜び、成長させてくださる神に信頼することが肝心要です。

★40年経過した今、もみの木幼児園を通して、私自身も子供たちと共に成長させて頂いた事実を改めて確認します。それはまさに一日一日の恵みの営みでした。

そしてあの経験ゆえに、老年期の成長について断言できるのです。
 老年期の成長は、本人を含めて多くの人々に認めにくい、しかし確かに成長なのです。イザヤ40章30,31節に見る「【主】を待ち望む」成長し続ける老年の姿のように。
 そうです、勇気を失わないのです。
Ⅱコリント4章16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」。
 いつでも、どこでも成長。あらゆる点において成長の道です。
聖書をメガネとして神の成長の恵みの事実を認め感謝に満たされ、
ローマ8章23節の道を地道に進むのです。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」。
 心の中でうめきながらの成長です。死を乗り越える成長です。