『礼拝の生活』再考、その①

1970年4月から1986年3月まで、青梅キリスト教会牧師としての歩みを重ねました。
この青梅・小作時代は、私の30代の丸まる10年と40代の前半を含む期間、3歳年下の君代にとっても、おおむね同じでした。
さらに四人の子供たちにとっても、それぞれにとり意味合いが異なる面がある、故郷での日々でした。

青梅時代の忘れ難い思い出は、幾人かの方々が交代して一貫して謄写印刷で出し続けた、毎週の『礼拝の生活』です。直接青梅キリスト教会の牧会ばかりでなく、東京キリスト教短期大学の授業、さらに様々な関係者への配布と、『礼拝の生活』を通して、神学的対話の波紋が広がりました。
「存在の喜び」と共に、『礼拝の生活』自体が、聖書を通して物事を直視し、思索する小さな営みの核になりました。

 著作集8巻の4冊目・『礼拝に生きる民―申命記説教と註解』刊行の準備が進められている今、『礼拝の生活』の巻頭言の再考により、説教者としての歩みの回顧と、残り少なくなった今後の展望をなしたいと踏み出します。

1970年5月31日発行、『礼拝の生活』準備号
  「青梅キリスト教会の一員として」
 「青梅キリスト教会と共に生きる特権と責任を与えられた今、二つの期待が私の心を支配しています。
ひとつは、聖書の豊かさを真に味わいたいことです。
神の御言葉である聖書は、私たちの魂を生きかえらせ、賢くし、心を喜ばせ、眼を明らかにしてくれます。(詩篇19:7)。教会全体が、また教会員ひとりびとりが、聖書の豊かさ、また真実さに圧倒されつつ、日々をそして生涯を生きていく事を心から期待しています。実に、
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。」(詩篇119:105)

 もうひとつの願いは、キリストの体なる教会の豊かさをさらに深く体験したい事です。「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(Ⅰコリント12:3)という驚くべき聖句を、青梅キリスト教会の現実の歩みの中で体験したい、そう強く願っています。
私たち青梅キリスト教会全体が、又教会員ひとりびとりが、聖書の豊かさとキリストの体なる教会の豊かさを、聖霊ご自身の生き生きとした導きの中に、真に具体的に体験し続ける事を心から願っています。
以上の期待の内容は、ハイデルベルグ信仰問答が、感謝について、新しきわざについて明示しているものと同一です。「われわれが、何の功績もないのに、恩恵によって、キリストによって、救われているとすれば、何故、われわれは、よい行いをしなければならないのですか」(問86)との問いに対する以下の答えを、私たちは肝に銘ずる必要があります。
「そのわけは、キリストは、御血潮をもって、われわれをあがなってくださった後に、さらに、聖霊によって、更生せしめ、主に似る者として下さって、われわれが、全生涯をもって、この恩恵に対して、神に感謝をあらわし、われわれによって、神が崇められるように、してくださったのであります。
かくてさらに、われわれは、その実によって、自分の中に、自己の信仰を、一そう確信し、そして、われわれの、神に祝福された生活によって、われわれの、隣人をも、キリストに、導くのであります。」(竹森満佐一訳)
青梅キリスト教会の一員として生きる恵みを感謝しています。」

再考→牧師である前に一教会員として生かされる喜びが、いかに大切な要であるかを深く心に刻むのです。
2006年以降、私が直面し続ける戦いは、一教会員であることを放棄し、役員会の上に位置し、会計と書記の役割をも自らのものとする人の考え・行動・存在そのものです。
ローマ16章18節が、現実味を持ち迫るのです。
「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」