この日、この場の桜見物

 昨4月30日、妻君代は、郷里岩手県北上に、30年ぶりに桜見物に出かけて来ました。朝早く新幹線で北上に向かい夜9時前後に帰宅する、少し強行軍の一人旅でした。しかも、このところ君代は、まだ原因がはっきりしないからだの痛みが続いているのです。

 めずらしく私が積極的に、30年ぶりの桜見物を言い出しそれなりに支援し始めたのです。
 ところが出発の日がなかなか定まらない。
早くもなく遅くもなくもなく、まさにこの日があると君代は言い張るのです。しかも北上ならどこでも良いのでなく、展勝地、あの桜並木でなければとこだわるのです。
 そこで、特定のこの日、この場所とこだわりの30年ぶりの桜見物となったわけです。

 誰にも連絡せず、とんぼ返りの旅でした。しかし30年の年月、両親やホリチェック宣教師ご夫妻をはじめ愛する方々を思い出のうちに覚える幸いな時であったと推察、 勧めてよかったなと改めて感謝しています。かくして、
「1日は30年、
 30年は、1日のごとく。」

★2000年から2001年への越年(2000年12月31日23時半から2001年1月1日0時半)首里福音教会での説教を思い出したのです。以下のものです。


『一日は千年,千年は一日のごとくに』
                   Ⅱペテロ3章8-13節
[1]序

(1)新しい世紀を迎える意味を聖書が約束する永遠の希望の視点から味わい,、私たちの日々の生活・生涯の尊さを確認したいと明確な目的をもって私たちはこの越年礼拝・祈祷会を計画いたしました。
そして首里福音教会の会員や客員だけではなく、私たちの家族、友人、知人をお招きしたのです。
それにはそれなりの理由があります。
 今ここで私たちが聖書から学ぶ事柄は、ただキリスト者・教会にとってだけ意味のあることではない。一日とか千年とかは、すべての人にとって最も身近な課題なのです。私たちが一人の人間として生活しているなかで、「一日」ということを未だかって一度たりとも意識したことも考えたこともない、そのような人はまず誰一人いないと断言してよいでしょう。
 また2000年から2001年への越年にあたって、百年単位の世紀だけでなく、ミレニアム(千年)ということばが心をよぎります。その単語を聞いたり読んだりしたことを覚えている方も少なくないに違いありません.

(2)先程お読みしましたⅡペテロ3章8節から13節、特に8節には一日と千年と、その両方のことばが登場しています。しかもとても印象的なむずび形で著者は書き記しています、そうです、このように。
 「一日は千年のようであり」
 「千年は一日のようです」と,
60代の私でもすぐ記憶できるような言い方です。
 限られた時間ですが、この憶えやすい表現に注意し、Ⅱペテロ3章8節から13節さらにはペテロの手紙 第二の文脈から、その意味を探りたいのです。
その上で、この8節後半に明示している鍵語(キーワード)、「主の御前では」とのことばに意を注ぎます。私たちの小さな営みを通して、聖書が時、時間、歴史、そうです、私の生活や生涯についてはっきり教えているメッセージを心に刻みたいのです。

[2]「一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」
(1)前後関係・文脈
 まず8節から13節までの役割を確認します。ここで著者は、4節に見る「あざける者とも」(3節)のあざけりのことば、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めらのままではないか」に惑わされたり、落胆させたりしないよう注意し励ましています。さらに積極的に各自の生活・生涯の尊さを教えているのです。つまり、
 8節、見落としてはならい一事について。

9節、キリストの来臨が遅らされているのは、福音の宣教を通して救われる者が増し加えられるためであり、神の忍耐とあわれみと愛による。
 
10節、約束のときが遅いとあせる必要がないばかりではない。約束の日・主の日は必ず到来する。その事実を軽視し、まして無視して怠惰(たいだ)になり閉まりのない生活を送ってはならない。聖(きよ)い生き方を営み、敬虔な生涯をおくり(11節)、「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望」(13節)む。

(2)「一日は千年」
 旧約聖書詩篇の記者は,
「まことに、あなたの目には、
  千年も,きのうのように過ぎ去り、
  夜回りのひとときのようです」(詩篇90篇4節)と、人間の命の短さを神の永遠性と対比、しっかり実態を見つめています。
私たちが今意を注いでいるこの聖書箇所では、同じく「千年」を用いて神の時間の物差しと人間のそれとを比較し、神の約束実現に対する人間の期待の性急(せいきゅう・まだかまだか)さを対比しています。その上で、まだかまだかと性急さに浮足立つかと思えば、一転して「どうせまだだ」とだらだらと目の前の一日を無駄にしている。しかしその無駄に過ごした一日は、実は千年にも匹敵する内容豊かな時なのだと著者ペテロは鮮明に語りかけています。

(3)「千年は一日」
 神のご計画や時間は、人間の物差しで簡単に測り切れない。以下に見る,ハバククの預言のことばの通りです。
 
 「定められた時のために
  もうひとつの幻があるからだ。
  それは終わりの時に向かって急ぐ。
  人を欺くことはない。
  たとえ、遅くなっても、待っておれ。
  それは必ず来る、遅れることはない。」
ハバクク2章3節、新共同訳)
キリストの再臨がいつ来るかは、時間の統治者・歴史の主なる神の御手にあることです。人間の物差しや計算で簡単に測定できるような事柄ではないのです。新約聖書の最初の書マタイの福音書の1章1節には、
 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図」とあります。確かに、私たちと主イエス受肉・ご生涯と私たちの間には、二千年の時間的隔たりがあります。しかし同時に、主イエスダビデとの間の隔たりも約千年です。さらにダビデアブラハムの間も千年です。そうです。アブラハムへの約束から二千年、ダビデに対する約束からでも千年経過した後に、主イエスにあって彼らの対する約束は成就したのです。
 私たちの時計は、普通短針・秒針と長針です。あえて言えば、世紀針やミレニアム針でも物事を見る必要があるのです。悠々(ゆうゆう)とした心持ちに必ずなるとの確信、希望と忍耐(ローマ8章25節)をもって。「遅くなっても、遅れることはない」のですから。

[3]「主の御前では」
 私たちが、このⅡペテロ3章8節をどれだけ正しく、深く、豊かに理解できるかは,私たちがどれだけ注意深く、「主の御前では」ということばとその背後にある事実に心を向けるかにかかっています。さらに言えば、私たちの一日、私たちの生活・生涯、そして世界・宇宙の意味についても同じです。「主の御前」が鍵なのですこの一事に集中します。
(1)聖書と時、時間、歴史(参照,宇田進,「終末論」,『新聖書辞典』,いのちのことば社
 私たちが生まれ育った宗教環境においては、総じて歴史に無関心であると言ってよいでしょう。歴史は、川の流れのように絶え間無く過ぎ去って行く。歴史には初めもなく、終わりもない。いっさいがぐるり、ぐるりと円環的に巡り(東京の山手線のように)限りない変化と流転(るてん)。人間はその繰り返しの定めにしっかり組込めれてしまっている。人間にできることと言えば、この無意味を直感することしかない。この悲観的、宿命的な歴史観こそ、すべてのものが回帰する時間の円環(ぐるりぐるりの流れ)から抜け出し、時間の彼方(かなた)、無時間の永遠のうちにのみある救いを見出す道だと言うのです。伝道者の書1章1-14節において代弁されている通りです.
 聖書は、こうした考えと全く対照的な歴史の見方を明示しています。旧約聖書の最初の頁のまさに最初に、
「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)とあります。
この世界は,生ける神によって創造されたのです。「初めに」とあるように、時や歴史は,神の創造の御業です。創造者なる神との関係、そうです、「主の御前」 において重視されています。歴史は、神の目的と計画が展開される場なのです。歴史のことごとは偶然でも、ばらばらの砂粒のようなものではない。
歴史は全体として一貫した、統一を持つのです.ですから,「千年は一日のごとく」と大きく見ることができるのであり、見なければならない。歴史において起こるすべてのことは神の主権のもとにあり、意味と方向を持つと聖書は明確に教えています。

(2)主イエス、歴史の中心
 私たちは意識するとせざるとにかかわらず、2000年から2001年への越年というとき、イエスが歴史の中心である事実に触れています。クリスマスのとき特別に記念したように、主イエスは待ち望ぞまれたメシア・救い主です(ガラテヤ4章4節)、天地万物の中心であるお方です.
伊江島キャンプで毎回タッチューの頂上で読む聖書の箇所を、今、ここでもお読みいたします。
 
 「そこには、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」(コロサイ3章11節)。
 主イエスの誕生、それは待ち望まれたメシヤの到来です。主イエスのご生涯と十字架、そして復活において、「終わりのとき」は、すでに始まっているのです。「今が終わりのとき」(Ⅰヨハネ2章18節)との明確の自覚を持って、ヨハネは,ヨハネの手紙において書き記しています。
しかしそれだけはない。終わりの幕開けは告げられたのです。しかしその完全な成就は、なお未来であることをも新約聖書ははっきり教えています。主イエスにあって、「すでに」と「いまだ・やがて必ず」と、二重の意味で神のご統治を明らかにしています。確かに主イエスの十字架、復活と召天により「すでに」成就された恵みの時。同時に「いまだ」現実にはなっていない、しかし「やがて必ず」主イエスのご再臨、新天新地時において成就すると約束されている希望の時。
「主の御前にあって」、二つの時の間に生かされている、それが「人間・私」なのです.
  「私たちの時は、御手のなかにあります」( 詩篇31篇16節)と信じ告白し、希望に満たされ、喜びつつ忍耐の限りをつくし持ち場・立場で分を弁(わきま)え、分を果たす。これが世々のキリスト者・教会の歩みであり、年を越え、世紀を越えて私たちの歩みなのです。

(3)日々そして生涯と聖霊ご自身、歴史と聖霊ご自身.
 救い主イエスの誕生、生涯と十字架、そして復活。驚くばかりの恵みです。
全く同じく聖霊ご自身は、約束のメシアの時代到来のしるしです(ヨエル2章28-32節,使徒2章17-38節)。聖霊ご自身は、来るべきメシアの上にとどまり(イザヤ11章11章1,2節,61章1,2節)、メシアの死と復活、ご昇天を通して、キリスト者・教会にも与えられ注がれているのです。これこそ、ペテンコステのメッセージです(使徒2章1節以下)。しかも聖霊ご自身のキリスト者・教会への注ぎは、来るべき神の国の完成の初穂(ローマ8章23節)、前味、保証(Ⅱコリント1章22節,エペソ1章13,14節)です。
そうです、聖霊ご自身は、主イエスと共に終末の初めの実、(すでに)です。
新天・新地(いまだ・やがて必ず)の目標へ向かう万物、そして私たちを整え備えてくださるのです.。

[4]結び  
 最後に,日本の地で、主イエスのご再臨の希望を力強く宣べ伝えつつ、一日,一日を誠実に歩み続けた、私たちの先達の一人・内村鑑三のことばをご紹介いたします。

 「一日は一生である、善き一生がある如くに善き一日がある。悪(あし)き一生がある如く悪き一日がある。一日を短かき一生と見て之をゆるがせ(強調,鑑三)にしてはならない事が解る」(注)。
「一日は千年」,一日一生」との鍵のことばの意味を聖霊ご自身の導きにより心のうちに味わい、新しい年、新しい世紀、私の現実の生活・生涯において生かし、実を結ばして頂きたいのです.
この時を共に過ごせてことを感謝しつつ。