「哀歌講解説教レジメ」その③

★レジメが残されている10回の連続講解説教は、もともと首里福音教会の講壇から語られたものです。
 その首里福音教会の会堂は、無牧の中祈りが重ねられ、1987年6月20日に献堂されました。
 1986年4月の宮村家族の着任に備えて、会堂建設の計画と協力依頼が教会外へ送付された際、最初の応答者として献金を送金して下さったのは、
無教会の高橋三郎先生でした。
 2006年4月以来、その首里福音教会の講壇から私は説教することができないばかりか、会堂を訪問することもできません。
 そうした中で、このレジメが、石垣の八重山キリスト福音教会の最も困難な時に、数名の方々が主日礼拝を継続するため用いられたことは、小さくない慰めでした。
 今回全く思いを越えたブログという方法でお伝えできるのは、身に余る恵みです。特に琉球神学、また聖書味読・身読のカテゴリーのもとで。


『私たちの手をも心をも』      
         哀歌3::41-66
「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、
その英知は測りしれない。
疲れた者には力を与え、
精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、
若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しい力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」((イザヤ40章28ー31節)。

[1]序
(1)2002年度最後の月・3月、その第1主日の礼拝です。4月からの新しい年度を展望しつつ、この月も哀歌を読み進めて行きます。

(2)今朝は、哀歌3章の最後、41-66節を味わいます。この箇所を、41節―54節と55-66節と、二つに分けて意を注ぎます。

[2]3章41-54節、「私たちの手をも心をも」
 40節から47節の箇所は、それ以前の39節まで、またそれ以後48節以下でと一つの点で違いがあります。39節まで、また48節以下では、「私」と詩人は、自分自身を主語として語っています。ところが、40-47節では、「私たち」とイスラエルの民全体が正面に出てきます。詩人は、信仰共同体の一員として言い表していることを強調しています。そしてこのことから、40-47節以外でも、同じくイスラエルの民全体と詩人の関係が密接であることを教えられるのです。
 そうです、「私」と言っても、単なる個人と言うのではなく、イスラエルの共同体の一員、さらにその民を代表して語っている事実を心に留めたいのです。
(1)41節
40節の、「私たちの道を調べて、/主のみもとに立ち返ろう」と同様に、悔い改めの思いをさらに強く言い表しています。
「私たちの手をもこころをも/天におられる神に向けてあげよう」と、目に見える手の方向をもって、心を「天におられる神」に向けると目に見えない心の深みにかかわる真実を指し示しています。それと共に、「手をもこころをも」と重ねることにより、全身全霊をもっての祈りであることを重ねて強調しています。

(2)42節-45節
詩人は、3章1節から18節に見たと同じく自分たちの状態を激しい表現で言い表しています。
42節
「私たちはそむいて逆らいました」と率直な告白をないています。この罪の告白に基づき、詩人は祈りを続けます。

43ー45節
「御怒りを身にまとい」(43節)、「雲を身にまとい」(44節)と重ね、「私たちを追い、容赦なく殺されました」とバビロン捕囚の経験に言及するだけでなく、「私たちの祈りをさえぎり」(44節)と続けます。
バビロン捕囚は、「私たちを国々の民の間で、/あくたとし、いとわれる者とされました」(45節)と言われるように、イスラエルの民にとって屈辱的な経験の連続でした。
しかしそれは、単にバビロン軍によるエルサレム陥落やその後のバビロン捕囚など軍事的、国際的な関係がかりでなく、主なる神ご自身との関係が最も重要です。その主なる神との関係で、「私たちの祈りをさえぎり」と表現しなければならない経験だったのです。参照55篇1節。
このような経験の中から、哀歌の詩人は神の民の一員として悔い改めつつ祈るのです。それは、まさに「主よ。私は深い穴から御名を呼びました」(55節)と言言い表さざるを得ない類の祈りです。

(3)46節ー54節
46節から54節までの箇所では、敵の仕打ちとそれに対する哀歌の詩人の応答を繰り返し言い表し、語るべきメッセージを強調しています。
A.46、47節、敵の仕打ち
B.48-51節、哀歌の詩人の応答、激しい涙をもって。
A.52、53節、敵の仕打ち
B.54節、哀歌の詩人の応答、ことばをもって。

 46、47節に描かれている敵の仕打ちは、2章15、16節で見たように、周囲の国々や敵による「ことばのつぶて」なのです。
この事態を前にして、哀歌の詩人の悲しみの激しさは、その流す涙ついての描写(参照詩篇119篇136節)をもって表されています。
 それは、預言者エレミヤのことばを思い起こさせるものです。
「ああ、私の頭が水であったら、
私の目が涙の泉であったら、
 私は昼も夜も、
私の娘、私の民の殺された者のために
なこうものを」(エレミヤ9章1節)。

 52、53節において、敵の仕打ちは、さらに激しくなっています。
「わけもないのに、私の敵となった者」とは、詩篇の記者が、「ゆえもなく私を憎む者」(詩篇35篇19節、69篇4節)と呼ぶ場合を参照。

 「穴に入れて殺そう」(53節)とは、エレミヤの経験した迫害(エレミヤ38章6節以下)と同じです。その激しさは、エレミヤの場合を上回るほどのもので、53節に見る石と54節の水の両方による、激しい攻撃です。

[3]3章55-66節、「私は深い穴から御名を呼びました」
 54節に見た、絶望的な状態の中から、哀歌の詩人は祈るのです、「私は深い穴から御名を呼びました」と。
この箇所では、敵についての訴えが続きます。その際、哀歌の詩人は、与えられている恵み(A)に立って、さらに祈り求めること(B)を繰り返し、哀歌の詩人は絶望しないのです。
A.「あなたは私の声を聞かれました」(56節)
   ↓
B.「救いを求める私の叫びに/耳を閉じないでください}(56節)

A.「私があなたによばわるとき、/あなたは近づいて、/『恐れるな』と仰せられました」(57節)、58節、59節前半。
   ↓
B.「どうか、私の訴えを正しくさばいてください」(59節)。

A.「・・・ご覧になりました」(60節)
「・・・聞かれました」(61節)
「・・・聞かれました」(62節)
      ↓
B.63-66節の訴え。
ここに、哀歌の詩人の実に深い信仰を見ます。

[4]結び
 私たちも、様々な困難な立場に立たされます。哀歌の詩人のように、悲しみを味わうことも少なくありません。そうした中で、主なる神のよくしてくださったことを忘れずに(詩篇103篇2節)、私たちの現実を主なる神に訴え、執り成すのです。

        
          『シオンに火は燃え上がり』     
                        哀歌4:1-22
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです」(詩篇23篇4節)。

[1]序
(1)本日午後2時から、石川福音教会の献堂式が持たれます。長年の祈りを経て導かれ、この度、素晴らしい会堂・牧師舘が備えられました。感謝と今後の活用のために祈る献堂式の上に豊かな祝福がありますように。

(2)今朝は、哀歌4章全体を3つの部分に分け見て行きます。
1-10節過去のエルサレムの美しさと現在の姿、
11-20節民の指導者の罪の指摘、
21-22節強敵エドムに対する警告、この三つの部分です。

[2]4章1-10節、過去のエルサレムの美しさと現在の姿
 エルサレムの包囲と陥落の悲惨な経験をした哀歌の詩人は、この4章で恐るべき出来事を事実に即して伝えています。
(1)1、2節。
4章全体の序としての役割を果たしています。
「金は曇り」(1節)、変色したり輝きを失うことがない金が、今や曇り、色も変わり、見る影もない。
また「聖なる石は、あらゆる道ばかに投げ出されている」(1節)など、貴いものが価値のないものとなっている実例を挙げています。しかし金よりも宝石よりも、比較にならないほど貴いものである神の民が今や卑しめられている、人間の尊厳(そんげん)がこれ程まで踏みにじられていると哀歌の詩人は強調しているのです。

(2)3-10節。
エルサレム陥落の悲惨な出来事を、バビロン軍のエルサレム包囲により引き起こされた「飢え」に焦点を絞り描いています。
 3、4節。一番弱い立場にある、乳飲み子や幼児がまっさきに犠牲になってしまったのです。
荒野で腐肉を求めてさまようジャッカル。無慈悲な動物の代表と言われるだちょう(ヨブ39章3-18節)。そうした動物の場合に見ると同じ、またさらにひどいことが幼い者たちに降りかかっているのです。
「乳飲み子の舌は乾いて上あごにつき」(4節)、彼らは飢えを訴える声さえでないほど弱りきってしまったのです。

 5節。上流階級の人々の以前の贅沢(ぜいたく)な衣食と現在のまったく惨めな生活を対比して、いかに悲惨な出来事であったか強調しています。

 6節。弱い立場の幼い者たちがこれ程まで犠牲となっているのは、エルサレムの罪が「ソドムの罪より大き」かったからであると、哀歌の詩人はここでも罪を深く認めています。参照1章5、14、22節。
一瞬のうちに滅ぼされたソドム(創世記19章25節)。ソドムより大きい罪を犯したエルサレムは、長く続く恐ろしい「飢え」を経験したのです。

 7、8節。ナジル人(民数記6章2節)の場合も、7節に描かれている以前の麗(うるわ)しさは、8節に見るように見る影もない惨めなものになってしまったのです。
白と紅、さらにサファイア(7節)と色鮮やかな、以前の美しさや健康(雅歌5章10-15節)は、今や一変して、「すすよりも黒くなり」(8節)とすっかり色あせ、彼らの顔も体も見る影もなくなりました。

 9、10節。飢饉(ききん)の恐ろしさの描写は、この2節で頂点に達します。
 6節で、ソドムのさばきに比較して、城壁包囲により引き起こされたエルサレムの飢えは、より深刻であると哀歌の詩人は指摘していました。この9節では、今現にエルサレムで起っている事態として、「剣で殺される者は飢え死にする者よりも、しあわせであった」と、長引く飢えがいかに恐ろしい事態を引き起こしているか訴えています。
10節で、3、4節に見た母親と乳飲み子の関係に戻りますが、人間の尊厳が徹底的に踏みにじられている悲惨の極限を伝えています。参照エレミヤ19章9節。

[3]4章11-22節、民の指導者の罪の指摘と強敵エドムに対する警告
(1)11-20節、民の指導者の罪の指摘
11、12節。「シオンに火をつけられた」。 ここでの火は、バビロン軍の手でつけられた実際の火を指すと同時に、主なる神の怒りの象徴でもあります(エレミヤ17章27節、申命記6章15節)。
エルサレムが火で焼け落ちる、そんなことは思いもよらなかったことです。エルサレムは、もともと敵が攻めにくい地形にありました。その上、王たちがこれを幾度か補強しました(Ⅱ歴代誌26章9節、27章3節、33章14節)。
さらにヒゼキヤ王の時代、アッシリヤ軍から守られた経験(Ⅰ列王記14-37節)から、人々はエルサレムとその神殿は無条件に守られると考え、自分たちの罪に対して盲目となってしまったのです。

 13-16節。人々が思いも及ばなかったエルサレム陥落が現実となったのは、「預言者たちの罪/祭司の咎」(13節)とあるように、民の中の宗教的指導者の罪によることを哀歌の詩人は明示します。参照2章14節。
「正しい人の血を流したからだ」(13節)、預言者や祭司が直接手をくださなくとも、他の人々の行為を黙認するなら、その責任は問われるのです。
参照エゼキエル22章1-5節、詩篇106篇37-40節、偶像礼拝と血を流すことは結んで考えられています。
「触れようとしなかった」(14節)、罪のない人々の血によって汚されているからと言って。
「汚れた者」(15節)、血で汚れた者は神の民の間だけでなく、異邦の民の間でも受け入れられない様を描いています。

 16節。このように、宗教的な指導者の罪の重さを強調しています。参照エレミヤ52章24、26、27節。

 17-20節。「私たち」と1人称、複数。哀歌の詩人は、イスラエルの民・共同体の一員として、エルサレム陥落の最終段階について語っています。
「助けを求めたが、むなしかった」(17節)、13-16節に見る事実にもかかわらず、むなしい人の「助けを求めた」と、哀歌の詩人は罪を指し示しています。 「救いをもたらさない国の来るのを」(17節)、来る当てのない外国軍になおも期待している、民の罪を指摘しています。参照イザヤ30章7節。
18-20節、エルサレムの城壁が破られ、バビロン軍がエルサレムの城内に入り始めたときの有り様を描いています。
「つけねらわれて」(18節)、バビロン軍が城壁を破り、城内に侵入し、エルサレムの人々がバビロン兵を身近に見ている危険な状態を描いています。
 「山々の上まで追い迫り、/荒野で私たちを待ち伏せた」(19節)、どこへ逃げても、身を隠す場がないほど、バビロン軍の追求は厳しかったのです。
 「私たちの鼻の息である者」(20節)は、カナンにおいては、古くから王を指す特別な表現でした。また次の「主に油注がれた者」が明らかに王を指すことから、同じく王を指していると考えられます。

(2)21、22節、強敵エドムに対する警告
ユダを取り巻く国々の中でも、最もはっきり敵対するエドムに対しての預言・警告です。参照イザヤ34章5-17節、63章1-6節。
エドムの娘」(21節)、参照エレミヤ25章20、21、27節。
「楽しみ喜べ」(21節)、将来について何も知らない今のうちに。楽しみ喜べるのは今のうちだけだとの皮肉。
「あなたにも杯は巡って来る」(21節)、主なる神のさばきの象徴、参照エレミヤ25章15ー19節。
 「シオンの娘、あなたの刑罰は果たされた」(22節)、現実には、エルサレムが陥落し、バビロン捕囚が始まったばかりであるのに、神の民へのさばきを通して、その後に備えられている約束、「主はもう、あなたを捕らえ移さない」(22節)が与えられています。トンネルの中を通っている中にあっても、出口の光が見えているような状態。

[4]結び (1)エルサレムの包囲、崩壊、捕囚。その経験がどれほどのものであったか、その一端を垣間見ました。この炎を通して、なお哀歌の詩人は主なる神の真実と恵みにしっかりとたっているのです。エレミヤ、エゼキエルなど預言者たちのメッセージは、この悲惨に立ってのものです。

(2)第二次世界大戦の炎を通して、主イエスの十字架を見上げげる信仰に導かれた、一人のドイツ人は、以下のように記しています。
「1943年17歳のとき、徴集を受け、1943年7月市内中心部の高射砲台で、ハンブルグ市が炎上し崩壊する様を体験した。1944年前線に来て、1945年捕虜になり、1948年、3年後にそこから帰還した。ベルギーとスコットランドの収容所で、わたしは自分の生の確かさが崩れるのを経験し、この崩壊の経験のなかでキリスト教信仰における新しい生の希望を経験した」(J.モルトマン)。
 最後にもう一度、詩篇23篇4節をお読みします。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです」(詩篇23篇4節)。


          『主よ、目を留めてください』     
                          哀歌5:1-18


「主よ。私たちは自分たちの悪と、
先祖の咎とを知っています。
ほんとうに私たちは、
あなたに罪を犯しています」(エレミヤ14章20節)。

1]序
(1)本日は、主日礼拝後、分会の交わりの時を持ちます。限られた時間ですが、それぞれの分会で幸いな交わりのときが与えられますように。
また午後3時から、沖縄聖書神学校の卒業式が予定されています。

(2)今朝は、哀歌最後の章に入ります。5章1-18節の箇所です。
来週は、哀歌の最後、5章19-22節を味わう予定です。

[2]5章1-10節、
 1節に見るように、主なる神への切なる祈り。指導者たちがパビロンへ捕囚の民として連れ去られた後、エルサレムをはじめユダに残された人々の現状を哀歌の詩人は訴えながら、以前の状態への回復を切望しています。
(1)1節
「私たちに起こったこと」とは、2-18節の嘆きや訴えを通し描いている社会的、経済的、政治的また宗教的な崩壊(ほうかい)のことです。それは、個人としても共同体としても徹底的な弱体化を意味します。この現実に立ち、嘆き訴えています。
「私たち」、哀歌の詩人は、共同体を代表して、全く低くされた民の実情を主なる神に見て頂きたいと切願します。

(2)2ー10節
 2、3節
最初に焦点を当てているのは、家庭崩壊です。
イスラエル社会の基盤である「相続地」(参照ヨシュア24章28節)は、イスラエルの民の内部においてさえ、所有権の移動を避けられて来ました。それがこともあろうに、「他国人の手に渡」ってしまう有り様です。これは、単に経済的問題であるばかりでなく宗教的、文化的痛手です。家族関係は破壊され、「みなしご」(2節)、「やもめ」(3節)など、最も頼りない存在になってしまった事実を、妻や子供たちの視点に立ち描いています(参照詩篇68篇5節、イザヤ1章17節)。

 4-6節
バビロン軍による攻撃にも生き残り、バビロン捕囚にもならず、エルサレムを中心としたユダに残留した人々がいました。その人々が直面している苦境を描きます。
水を初めとして生存のため無くてはならないものを手に入れることさえ、いかに困難になっているか、悲惨な事態を訴えています。

 4節、「水]、最も必要なものが欠乏し、法外な代価を払って手に入れなければならないのです。約束の地で与えられると約束された祝福(申命記6章10、11節)から、大きく離れてしまった有様です。

 5節、「休むことができません」、「休み」は、主なる神がイスラエルの民に与える賜物の中で大切のものの一つ(申命記12章10節、25章19節、Ⅱサムエル7章1,11節)です。その「休み」から見放されているのです。神の民として全く低くされた様を訴えています。

 6節、「手を伸ばしました」、エジプトやアッシリヤと政治的、軍事的同盟を結ぶこと。実際には属国となることにほかならない。

 7-10節
6節まで描写して来たことを、さらに肉体的また精神的な激しい痛みを深く掘り下げ描きます。バビロン軍による陥落と占領、それらの結果を身に受けたユダの生存者の底知れぬ苦悩です。

 7節、今自分たちが直面している災いは、自分たちの罪(参照3章42節、5章16節)と先祖たちの罪に対するさばきであると、主なる神の御前に、哀歌の詩人はイスラエルの過去と現在とをしっかり見つめています。
「私たちは恥の中に伏し、
侮辱が私たちのおおいとなっています。
私たちの神、主に対し、
私たちも先祖たちも、
私たちの若いころから今まで罪を犯して、
私たちの神、主の御声に
聞き従わなかったからです」(エレミヤ3章25節)。     

 8-10節
8-10節では、7節に見るさばきをより詳しく説明しています。

 8節、ユダは、今や独立国としての立場を失い、バビロンのネブカデレザルの奴隷・家来(Ⅱ列王記25章24節)たちに統治されることになったのです。

 9、10節。戦争と占領の結果、エルサレムに生き残った人々の状態がどれほどひどいものであったか、食料事情に焦点を絞り描いています。極端な栄養失調の姿(10節)の描写をもって、ユダ全体が経済的にまた社会的に破壊され、荒野のように荒廃してしまった事実を伝えています。

[3]5章11-18節、
(1)11-14節
 占領後、暴力による社会的圧迫が婦人、長老、若者などに向けられ、市民社会全体が崩れ去る状態を訴えています。 

 11節。戦争また占領の暴力的な恐ろしさは、首都(シオン)ばかりでなく、国中に(「ユダの町々」、11節)及んだのです。参照イザヤ13章16節、ゼヤリヤ14章2節。

 12節。敵の手により、社会秩序の根底にまで邪悪な仕打ちを受けたのです。

 「つるされ」、しばり首の刑罰は、大変な恥じと考えられていました。
長老たちへの尊敬は、主なる神から与えられた教えです(レビ19章32節)。

 13節。ひき臼による粉ひき、特に大規模なものは重労働で、ロバなど動物を用いたのです。またたきぎを運ぶのも、ロバを用いるのが普通でした。
ですから、13節で指摘されているのは、単に肉体的に厳しい重労働が課せられたというだけでない。動物のように扱われ、人間としての尊厳が踏みにじられている深刻な事態なのです。

 14節。「年寄りたちは、城門に集まる」、その目的は、公の場で、訴訟の取り扱いなど公の仕事をなすためです。参照ルツ4章1、2節、箴言31章23節。
また城門のまわりの広場は、年寄りたちが人々のにぎやかな往来をながめながら、日中を過ごす憩いの場でもありました。参照創世記19章1節、ヨブ29章7節。

(2)15-18節
ユダの崩壊が頂点に達した事態を描き、政治的、宗教的に死んだも同然の状態であると哀歌の詩人は悲しみの歌を歌います。ユダ王国は、ダビデに対する主なる神の契約を引き継ぐものと見なされて来ました。しかし、今やユダは存続の基盤を失うのです。

 15節。神殿での礼拝にともなう喜びをはじめ、生活全体のなかから喜びが奪われてしまう様を指摘しています、参照7章34節、16章9節、31章13節。
主なる神を喜ぶ礼拝の民は、「踊りが喪に変わ」ってしまう状態なのです。

 16節。「冠」は、象徴的な意味で用いられています、参照イザヤ28章1、3節。
ダビデ王朝、神殿の崩壊を前にして、「私たちが罪を犯した」と、深い罪の告白、参照5章7節。

 17節。「心が病んで」、「目が暗くなった」、エルサム陥落とバビロン捕囚、そしてエルサムに残存の人々の内面がいかなるものであるか象徴的に描いています。

 18節。17節で内面的に描いているエルサレム残存の人々の状態を、目に見える形で描いています。
「シオンの山」、主なる神のご臨在の象徴です。
「狐がそこを歩き回っている」、契約が破られたときの呪いとして、参照イザヤ13章19-22節、34章11-17節、ゼパニヤ2章13-15節。

[4]結び (1)バビロン軍の攻撃で死亡した人々、バビロン捕囚となった指導者たち。さらに哀歌の詩人は、エルサレムに残留した人々の惨状をも直視しています。どこに目を向けて行くべきかを私たちに教えてくれます。

(2)私たちの先祖の罪と私たちの罪と、哀歌の詩人は、歴史の流れを大切にします。過去を軽視せず、また現在の自分の立場を見逃さないのです。
聖書全体は、私たちに過去と現在の尊さを教えています。

        
         『わたしたちの日々を新しく』     
                        哀歌5:19-22
「あなたの御霊を送られると、彼らは造られます。
また、あなたは地の面を新しくされます」(詩篇104篇30節)。

[1]序
(1)哀歌を読み進める歩みの中で、先週、私たちはイラクをめぐる心痛む遺憾な報道に接し、聖研・祈祷会やそれぞれの場で祈り、今朝の主日礼拝に集まっています。日本福音キリスト教会連合の社会委員会から、祈祷課題が、沖縄地区運営委員長を通して送られて来ました。
本日礼拝後、定例教会学校を開きます。4月からの歩みに備えるときです。

(2)1月第一主日の礼拝から読み進めて来ました哀歌、今朝はその最後5章19-22節の箇所を取り上げます。この3箇月の恵みを感謝し、4月から新しくマルコの福音書を読み進める備えのため祈りたいのです。

[2]19、20節、「しかし、主よ」
(1)19節。
①ここに、哀歌の結びとなる祈願を見ます。
祈りの基盤を明らかにしています。
18節に描くように、神殿が目に見える形では荒廃しているのは事実です。しかし主なる神の真実の「御座」は、永遠に続く。この恵みの事実を哀歌の詩人は決して見失わないのです。
 「しかし、主よ。
あなたはとこしえに御座に着き、
あなたの御座は代々に続きます。」
ここに見るのと同じ信仰の態度を、幾つもの詩篇(44篇1-8節、74篇12-17節、80篇1、2節、89篇1-18節)にも見ます。
その一つ、詩篇80篇1、2節では、以下のように言い表されています。 
イスラエルの牧者よ。聞いてください。
ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。
光を放ってください。
ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。
エフライムとベニヤミンとマナセの前で、
御力を呼びさまし、
私たちを救うために来てください」(詩篇80篇1、2節)。 

②神殿崩壊の中で、はっきり示されている生ける神に対する信仰の告白。この信仰告白を、イスラエルの周囲の偶像礼拝の場合と比較すると、その相違は際立ちます。偶像礼拝の場合、国と国の戦いは、それぞれが礼拝している国家宗教の戦いと理解されます。一方の国が他方の国に破られることは、敗れた国の偶像の敗北なのです。その一例を、イザヤ46章1,2節に見ます。
「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。
 彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、
あなたがたの運ぶものは荷物となり、
 疲れた獣の重荷となる」(イザヤ46章1節)。
ベルとネボは、バビロンの偶像の名前です。バビロンが敗北するとき、偶像が重荷となっている様が生き生きと描かれています。バビロンの敗北は、その偶像の敗北。

 これに対して、バビロンによるユダの徹底的な敗北を通しても、天地の創造者、私たちを母の胎内で創造してくださり、御手によって担い支えてくださるお方は(イザヤ46章3、4節)、そのご真実を明らかにされています。偶像の場合のように、国と一体なのではないのです。主なる神が民の罪に対しては災いを与え(哀歌1章12-19節、2章1-8節、4章11節)、また同時に彼らに回復をもたらしてくださるのです。

(2)20節。「なぜ」、嘆きの詩篇に繰り返し用いられることばです。
19節に確認している恵みに立ち、直面している現実の中で執り成しの祈りを続けています。
「忘れられる」、「捨てられる」と、同じことを二つの異なることばを重ねて用い強調しています。
5章1節に見る祈りにおいて、「思い出す」、「目を留める」と言われることと結びつきます。
神殿は破壊され、指導者はバビロン捕囚、エレサレムに残された人々も悲惨な状態と、主なる神に「忘れられ」、「捨てられた」と見える現実を哀歌の詩人は訴えています。彼の訴えの基盤となるのは、主なる神の約束です、参照レビ26章40-45節。

[3]21、22節、わたしたちの日々を新しく
(1)21節
「帰る」、捕囚から帰ることではなく、主なる神との関係の回復のことです。それは、悔い改めと信仰の回復を通して現実になります。
「あなたのみもとに帰らせてください。/私たちは帰りたいのです」と、「帰る」を重ねて、強調しています。何より求めるものは、主なる神の契約の祝福です。万軍の神が自分たちの上に御顔を照り輝かせてくださる喜びです。 本来の立場に帰り、交わりが回復されることは、「新しくされる」ことでもあります。そして新しくされることは、聖霊ご自身の見えざる働き、心の内面に及ぶ働きによるものです(ヨハネ3章3-5節)。

詩篇104篇30節をもう一度注意します
「あなたの御霊を送られると、彼らは造られます。
また、あなたは地の面を新しくされます」(詩篇104篇30節)。

(2)22節
①ここに見ると同じような終わり方をしている例として、詩篇88篇18節、89篇51節を参照。
また疑問形で最後が結ばれている興味深い例として、ヨナ書の例(ヨナ4章11節)を注意したいのです。

②哀歌の初めから終わりまで、民の罪の結果、彼らが直面している苦悩を哀歌の詩人は繰り返し描いています。民を見る限り、望みがないように思われます。
 しかし主なる神ご自身は、すべてをご統治なさっており、イスラエルの民との契約は、民の不従順にもかかわらず、有効です。
民にとって希望は、罪を告白し、本来の姿に立ち返ることです。バビロン捕囚にあっても、なお主なる神の憐みを経験し(3章21-30節)、本来の姿へ立ち返る道(5章21節)へ哀歌を最初に読んだ人々も、今読む私たちも招かれている恵みの事実、感謝。 

[4]結び
(1)祈り
哀しみの歌の中にあっても、なお祈りは継続されています。 

(2)現実
哀歌の詩人は祈りつつ、現実をありのままに直視しています。

(3)日々の新しさ。本来の姿への回復の源なるお方。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、  
 その名を聖ととなえられる方が、
こう仰せられる。
『わたしは、高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、
 砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57章15節)。