哀歌講解説教レジメ その2

『私の目は涙でつぶれ』
哀歌2:11-22


「夜の間、夜の見張りが立つころから、
立って大声で叫び、
あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。
主に向かって手を差し上げ、
あなたの幼子たちのために祈れ。
彼らは、あらゆる街頭で、
飢えのために弱り果てている。」(哀歌2章19節)。

[1]序
(1)今朝は、2月第1主日の礼拝。2月の歩みでは、16日と23日の主日、特別な行事が計画されています。
2月16日(日)午後2時から、沖縄福音連盟中高生大会が、当教会で持たれます。沖縄福音連盟に参加している各教会から中高生が集い、聖書の学びと交わりのときを持ちます。
また2月23日(日)は、沖縄地区の講壇交換です。首里福音教会では、石川福音教会の重元先生が宣教を担当してくださいます。また午後5時からは、当教会で沖縄地区総会を開きます。

(2)以上の特別な行事を含めて、2月の歩みを展望しながら、哀歌2章の後半・11節―22節に焦点を合わせます。

[2]エルサレムの破壊を目の前にして 、 2章11-17節。
(1)2章10節から2章11節へ
10節までの主題の一つは、1-5節に見た、「御怒り」でした。ところが、11節以下では、エルサレムの破壊に直面した、哀歌の詩人の嘆き悲しみを率直に言い表しています。

 10節では、「シオンの娘の長老たち」たちが、エルサレムの現状を前にして、深い悲しみ沈む様を描いています。
「地にすわって黙り込み、
頭にはちりをまき散らし、身には荒布をまとった」。
しかし彼らがどのようなことばをもって、何を嘆いたのか、ここには記されていません。彼らのことばにすることの出来なかった嘆きを、11節以下に見るようなことばで哀歌の詩人は、言い表しています。

(2)エルサレム包囲によりもたらされる苦悩と悲惨11-13節、
①悲しみの深さを哀歌の詩人は、からだの一部を表すことばを重ねて用いて強調しています。
「私の目は涙でつぶれ」
「私のはらわたは煮え返り」
「私の肝(きも)は、・・・注ぎ出された」

エルサレムの城壁内に閉じ込められた人々の悲惨な状況の影響は、一番弱い立場にある幼子の上に集中されてしまいます。
「幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている」(11節)。
穀物とぶどう酒」に代表される、蓄えられた食物を彼らは求め続けます。しかし、その求めは空しく、
「母のふところで息も絶えようとしている」のです。
このような幼児が直面する悲惨な様について、哀歌の詩人は、特別に注意を払い、次の2箇所で繰り返し描いています。
2章19-21節
4章4節

③シオンの惨状をことばに表現することによって、なんとかなぐさめようとするのです。しかしシオンの状態のあまりのひどさに、哀歌の詩人は今までの歴史上のことごとにも、自然界の中にもたとえを見つけることができないのです。
そうした中で、
「あなたの傷は海のように大きい」(13節)と、
ただ一つ、海の広さ(参照イザヤ54章9節)をもって、シオンの有り様をやっと言い表せるばかりです。しかしそれでも慰めることも、またいやすことも出来ない事実を確認するだけです。

(3)預言者、道行く人そして敵、14-17節
①このシオンの状態を前にして、哀歌の詩人は、その原因を指摘します。悔い改めを妨げる偽預言者がなしたこと、なさなかったことを明らかにします。
まず彼らがなしたことを、2回繰り返し指摘し強調します。

「むなしい、つまらないことばかりを預言して」、
「むなしい、人を惑わすことばを預言した」。

 その上、語るべきことを語らなかったのです。
「あなたの捕らわれ人を返すために、
あなたの咎をあばこうとせず」。
これは、まさに、エレミヤが直面した事態です、エレミヤ14章14、15節。

エルサレムの苦しみに対して、「道行く人」(15節)も「敵」(16節)もあざけりのことばを浴びせます。

 しかし哀歌の詩人は、
「主は企てたことを行ない、
昔から告げられたみことばを成し遂げられた」(17節)と、事柄の中心を見ています。

[3]苦難の中での祈り 2章18-22節。
(1)祈りの呼びかけ、18、19節
①「シオンの娘の城壁よ」(18)、2章7、8節で特に注意を払っていた「城壁」に対して、ここでは人間であるかのように呼びかけ、実際には城壁の中にいる人々に訴えています。 
本来人々を守るべき城壁が、その役割を果たすことが出来ず、助けを求めることを指摘することにより、直面している事態がいかに深刻なものであるか明らかにされています。 

②「昼も夜も、川のように涙を流せ」と、深い悲しみの中から祈りがなされるように、哀歌の詩人は訴えています。

祈りの中心は、幼子のためです。
「あなたの幼子のために祈れ」。

(2)祈り、20-22節
①詩人の訴えに応答して、エルサレムが主なる神に対する祈りが記されています。その内容は、直面している惨状を、主なる神が「ご覧くださり、顧みください」(20節)と訴えるものであり、18、19節の祈りに対する訴えに答えるものです。
「祭司や預言者」の虐殺を取り上げているのは、1章19節に通じます。しかし特別な人々ばかりでなく、
「幼い者も年寄りも道ばたで地に横たわり、
「私の若い女たちも若い男たちも剣に倒れました」(21節)と、全住民に災いが降りかかって来る様を訴えています。
しかし訴えの中心は、ここでも「幼子」(20節)であることは、明らかです。  
②この祈りにおいても、直面している惨状が、単にバビロンの軍勢が強力であることが原因でないことを明らかにしています。
「あなたは、例祭の日のように、
私の恐れる者たちを、四方から呼び集めました。」
彼らは、警告を受けていたのに、それを無視して、このような結果を招いてしまったのです。参照申命記28章15節以下。

[4]結び
哀歌の詩人は、直面する悲惨な状況を前に祈りを訴えています。その祈りの内容が、幼子を中心としている事実は、実に印象的です。私たちの祈りも、幼子のための祈りを中心とすべきことを教えられます。もう一度哀歌2章19節)をお読みします。

       

『腎臓に射込まれた者』 
哀歌3:1-18

「私はこれを思い返す。
それゆえ、私は待ち望む。」(哀歌3章21節)。

[1]序
(1)今朝は、第2主日ですので、礼拝後、いつものように、糸数姉の指導により会衆聖歌隊練習のときを持ちます。また音楽委員会や2月の定例役員会も開かれます。

(2)以上のような予定がある中で、今朝は、哀歌の3章1節から3章18節までを味わいたいのです。
このすさましいまでのことばを用いている部分も、やはり3章全体の流れの中で噛みしめる必要があります。3章1節から66節を、以下のような部分に分け、全体の流れを確認することができます。

1-18節、直面している苦難と悩みを、神の怒りとの関係で受け止めている。19-39節、このような現実の中で、神の憐みとめぐみを深く味わう。
40-54節、敵は民を滅ぼそうとして待ち構えている。
55-60節、そのような中での祈り。
以上の流れの中で、激しいことばで表現している哀歌3章1-18節は、悲惨と絶望の中から悔い改めの道へ備える役割を果たしている事実に目を注ぎたいのです。
また19-39節と切り離すことなく、3章全体の流れの中で、特に18節と21節や25節との関係を注意し、3章1-18節の箇所を受け止めます。

 さらに個人的な嘆きの詩篇の一つ・詩篇13篇において、嘆き(1-4節)と賛美(5、6節)と内容が対象的な部分が直接結びついている実例を参照にしながら、私たちの箇所を味わいたいのです。

[2]腎臓に射込まれた者 哀歌3章1-18節。
哀歌の詩人は、「私は主の激しい怒りのむちを受けて/悩みに会った者。」(1節)と、自分は苦難と悩みの中にいると言い表します。このような自分について語る例を、聖書の中に他にも幾人か見ます。
たとえば、ヨブ、
「あなたがた、私の友よ。
私をあわれめ、私をあわれめ。
神の御手が私を打ったからだ。」(ヨブ19章21節)。

 嘆きの詩篇の詩人、
「あなたの激しい憤りが私の上にとどまり、
あなたのすべての波で
あなたは私を悩ましておられます。」(詩篇88篇7節)。

 エレミヤ、
「私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも
こおどりして喜んだこともありません。
私はあなたの御手によって、
ひとりすわっていました。
あなたが憤りで私を満たされたからです。」(15章17節)。

 しかし、これらの誰の場合と比較しても、哀歌3章1-18節の箇所は、他に例を見ないほど、いかにも激しいものです。
(1)1-4節
「肉と皮と・・・骨」(4節)との表現は、嘆きの詩の中で用いられる例が少なくありません。
「あなたの憤りのため、
私の肉には完全なところがなく、
私の罪のため
私の骨には健全なところがありなせん」(詩篇38篇3節)。
この詩篇の場合も、祈りの中での訴えのことばです。
さらに、3節のような表現は、聖書の中で、他に例のないものです。

(2)5-9節
「取り囲んだ」(5節)、敵の軍隊に囲まれた町を思い起こさせます。
さらに個人的な苦しみを表すことばで、直面する苦しみを訴えています。

(3)10-13節
12、13節、「腎臓」は、最も敏感な、生命に欠かせない部分であり、そこを射抜かれたと苦悩の深さを表しています。ヨブも同様な表現を用いています。
 「その射手たちは私の内蔵を容赦なく射抜き、
私の胆汁を地に流した。」(ヨブ16章13節)。

(4)14-18節
18節は、21節と切り離すことなく、受け止める必要があります。主から受けた望みが断たれたように思える中で、
「それゆえ、私は待ち望む」(21節)、「それゆえ、私は主を待ち望む」(24節)との告白へと導かれています。さらに25節以下へと続きます。

以上のことから、18節は、誉れが消えうせたときにも、主から受ける望みが、なお一番深いところで支えていること含むと受け止めたいのです。

[3]詩篇13篇
 哀歌3章1-18節と19節以下の結びつきを理解するため、嘆きの詩篇の一つ13篇を参照したいのです。
(1)詩篇13篇1,2節、直面する困難の中で
「いつまで」と4回も繰り返し、苦悩の中から脱出を叫び求め続けています。 「いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう」と、自分を取り巻く敵が勝ち誇っている現実をありのままに訴えています。

 (2)3、4節、苦悩の中での祈り
「私に目を注ぎ」、主なる神が自分の現実を見てくださること、そのことが救いであるからとの祈りです。
「目を輝かせてください」、目を輝くことを妨げていることことが自分を押さえつけている現実の中で、この祈りをささげています。

(3)5、6節、信頼と賛美
1-4節に見る状態においても、「あなたの恵み」に(5節)に目を注ぎます。確かに、苦しい状態は依然として続いています。その中で、「私の心はあなたの救いを喜ぶ」のです。
さらに、心に注がれた喜びは、そのままではなく、「主に歌を歌います」とあるように、賛美として溢れるのです。

 1節から4節までと5,6節とは、内容的には直接結びつかないように見えます。しかし1-4節に見る主なる神に自らの現実を伝える訴えと苦悩の中での祈りは、6-7節に見る主なる神に対する信頼と堅く結びつきます。一面から見るなら、確かに異なる表現です。しかしそれにもかかわらず両者は同じ根からの現れなのです。

[4]結び
哀歌3章1-18節に、苦しみを訴える激しいことばを見て来ました。そのすさまじさに驚くばかりです。しかし詩篇13篇の実例から教えられるように、苦難を訴えることばは、21節と堅く結び付けて受け止める必要があります。 
「腎臓に射込まれた者」として、民の苦しみの経験(40-47節)を身をもって体験している者の痛みが深ければ深いほど、その中からの待ち望みの思いも深さを増す事実を教えられます。そのように心の深みからの待ち望みのことばとして、3章25、26節をお読みします。
 「主はいつくしみ深い。
 主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのはよき。」 


『主のあわれみは尽きない』 哀歌3:19-40

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいにやすらぎが来ます。わたしのくべきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11章29,30節)。

[1]序
(1)本日午後2時から、沖縄福音連盟中高生大会が、当教会で開かれます。沖縄福音連盟に属する諸教会から中高生が集い、みことばを共に学び(会堂)、また交わりのときを持つ(学生センター)、一年一度の機会です。

(2)今朝は、少し長い箇所です。哀歌3章19-40節を味わいます。この箇所は、哀歌の中心と見ることができます。哀歌の詩人の信仰がはっきりと言い表されています。
1章から3章前半までと鮮やかな対比をなしています。しかし両者は、対立したり矛盾するのではない事実、先週見た哀歌3章18節と21節また24節との関係からも明らかです。

[2]3章19-24節、待ち望みの恵み
生かされている現実が、いかにも厳しいものである中で、哀歌の詩人は、「待ち望む」恵みを経験し、その恵みについて証言しています。
(1)19-21節
 「思い出」(19節)、「思い出して」(20節)と、哀歌の詩人は、受けた苦しみについて深く思い巡らしています。しかしこのようにして目を注ぐ自分自身の中には、「ただこれを思い出して沈む」とあるように、頼るべきものは何もないのです。
このような現実の中で、「私は待ち望む」と、自分自身ではなく、目を上げ主なる神ご自身に心を開くのです。

(2)22節
「私たちが滅びうせなかったのは」、イスラエルの民がバビロン捕囚・神のさばきを経験する中でなおも支えられている事実。それは、まさに「主の恵み」によると哀歌の詩人は明言します。
「主の恵み」、それは契約の神のご真実であり、決して変わることのない御心です。     

(3)23、24節
①23節
「それは朝ごとに新しい」、この恵みの事実を、預言者イザヤは求めています。 彼にとり、それがいかに大切であるか教えられます。
「主よ。私たちをあわれんでください。
私たちはあなたを待ち望みます。
朝ごとに、私たちの腕となり、
苦難の時の私たちの救いとなってください」(イザヤ33章2節)

哀歌の詩人は、見上げるべきものにしっかりと目を注いでいます。
「あなたのご真実」、詩篇36篇5節、出エジプト34章6,7節。
信仰とは、一言で言えば、主なる神のご真実を仰ぎ望むこと。

②24節
「主こそ、私の受けるべき分」
「主はまたアロンに仰せられた。『あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたがたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。」(民数記18章20節)
約束の地に入ったイスラエル各部族が相続地を与えられる中で、祭司アロンは土地は与えられなかったのです。
しかし主なる神ご自身が、受けるべき相続地となってくださったのです。主なる神から受ける何かの恵みではなく、主なる神の民とされている事実、この主なる神との関係そのものが恵みなのです。

[3]3章25-40節、主はいつくしみ深い
(1)25-30節
「主はいつくしみ深い」(25節)。これこそ、哀歌の詩人が主なる神がどのようなお方であるかを伝えようとするとき、彼の心から溢れる信仰の告白なのです。これは、彼自身が「主を待ち望む者」、「主を求める者」としての経験を通して受け止めた確信です。
それですから、
「主の救いを黙って待つのはよい」(26節)と勧めることができるのです。

 さらに他の箇所では、打ちのめされた者について否定的な意味で用いることばで信仰の確信を言い表しています。
「くびきを負うのは良い」(27節)の「くびき」は、「私のそむきのくびき」(1章14節)とあるように、普通良くないものを表しています。バビロン捕囚の経験の中で、文字通りくびきを負わされたと考えられます。

「ひとり黙ってすわっているがよい」(28節)についても、1章1節に見た、「ひとり寂しくすわっている」との表現は、バビロン軍に徹底的に痛め付けられたエルサレムの姿を描く否定的な表現です。
 さらに、「口をちりにつけよ」(29節)は、3章16節に見るように、まったくの無抵抗、服従を示す動作です。しかしこの動作が、主なる神の御前におけるへりくだりを表しています。

(2)31-33節
この3節の文頭には、「なぜなら」と理由を表すことばが、もともと用いられており、27-30節に見る、普通なら否定的は辱めを意味することを忍耐して続け、主なる神の豊かな恵みにあずかる、確かな根拠を繰り返し強調しています。
 「(なぜなら)主は、いつまでも見放してはおられない。
(なぜなら)たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。
(なぜなら)主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
思っておられない」(31-33節)

(3)34-36節
なぜこんなことがと言わざるを得ない、無法な仕打ちが行われている現実に直面する中でも、なお「主は見ておられないだろうか」(36節)と、主なる神の恵みに対する信頼と希望をもって、哀歌の詩人は取り組んでいます。

(4)37-40節
「主が命じたのでなければ」(37節)、みことばをもって万物を創造なさった(創世記1章3節)、創造者なる神への信仰に、哀歌の詩人は堅く立つのです。さらに「わざわいも幸いも」(38節)をも統治なさるお方を見上げて、深い慰めを与えられています。すべてのことを益にしてくださることを信じる信仰に通じるものです(ローマ8章28節)。

 このように導きを受ける中で、「自分自身の罪」(39節)とあるように、単に苦悩ばかりでなく、罪の自覚を哀歌の詩人は取り上げ、
「私たちの道を尋ね調べて、
主のみもとに立ち返ろう」(40節)と、悔い改めの道を進みます。

[4]結び
「主こそ、私の受ける分」、この恵みを、新約聖書において、より鮮明に私たちは教えられます。ローマ8章15節をお読みします。
「あなたがたは、・・・子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」

 「・・・生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとさた・・・」(ガラテヤ1章15、16節)。