哀歌講解説教レジメ その①

★2006年に直面した修羅場は、福音宣教の機会を妨げられただけではない。
1986年4月以降、首里福音教会を中心に語った宣教が抹殺・消去される事態なのです。
 それゆえ語った宣教の内容を様々に記述するのは、私にとって義務・正しい努めです。                     
                    
                    2003年1月5日-3月23日
                     首 里 福 音 教 会

『ああ、人の群がっていたこの町は』    哀歌1:1-11
「私は主に向かい、声をあげて叫びます。
声をあげ、主にあわれみを請います。
私は御前に自分の嘆きを注ぎだし、
私の苦しみ御前に言い表わします。」(詩篇142篇1,2節)。

[1]序
(1)今朝は、2003年最初の主日、このように公同礼拝に参加できる恵みを心より感謝します。昨年までの歩みと一貫した、同じ礼拝の生活を今年も続け得る恵みの事実を、もう一度確認したいのです。

 そして同時に、新しい年の歩みは、昨年までのそれと全く同じなのではないのです。2002年一年恵みに応答する営みをなし続け、それなりに一歩成長(進展)させて頂いた群れまたその一員として、主日礼拝を中心に主日から主日へと歩みを進めさせて頂くのです。 年に年を重ねる、それは一貫と進展、この二つながらの恵みの歩みなのです。

(2)今回なぜ哀歌を主日礼拝で取り上げるのか、またどのような切り口から味わいたいのか、哀歌を実際に味わいつつ、少しづつ明らかになれば、幸いです。

 しかし今の時点でも、今日、沖縄に生かされているキリスト者・教会として、私は何をどのように悲しみ、どのような哀歌を歌うのか、この課題を意識しながら、哀歌を読み進めたいとの願いは共有できます。そしてこの願いは以下の思いへとつながります。

 「悲しむ者は幸いです。その人は慰められからです」(マタイ5章4節)と主イエスは語られました。聖書が言う意味で悲しみ・哀しみを知らなければ、聖書の言う慰めも経験することができない。本当に喜びの福音を心に刻まれた者の心から、哀歌が歌われるのではないか。

 1-3月哀歌を味わう私たちの歩みが、4月からマルコの福音書主日礼拝で読み進める備えにもなると期待します。

[2]1-6節、「ああ、人の群がっていたこの町は」
紀元前586年、強力なバピロン軍が、神の都と信じられていたエルサレムを包囲したのです。そればかりでなく城壁は破壊され、ついに陥落(かんらく)。神殿は汚され、その宝はパビロンヘ持ち運ばれ、その上民の指導的な人々もバピロン捕囚へ(「ユダは悩みと多くの労役のうちに/捕らえ移された。」)。この悲惨な現実から、哀歌の詩人は目をそらす事なく正面から深くとらえ、事態の根元に触れて行きます。

(1)「この町」(エルサレム)の姿、エルサレム陥落(かんらく)を境に、それ以前と以後を鋭く対比させ、陥落がいかにひどいものであるかを描きます。
①「人の群がっていたこの町」←→「ひとり寂しくすわっている」

②「国々の中で大いなる者」←→「やもめのよう」

③「諸州の女王」←→「苦役に服する」
今と昔、時の流れ・歴史の中で物事を見る。それは、物事を正しく、深く、豊かに知るために大切です。その営みをを示す、一つの実例。

(2)「彼女の愛する者)(2節)、「その友」(2節)、「愛する者立ち」(19節)などは、バピロン軍により崩壊する以前、ユダが同盟関係を結んだ国々を指しています。彼らは裏切り、敵となったのです。
特に「だれも慰めてくれない(2節、9節、16、17節)と強調しています。ここでの「慰め」は、口先だけの慰めでも、単なる同情でもなく、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められます」(マタイ5章4節)と主イエスが言われる「慰め」です。人と同じ立場に立ち、希望を与え、真に生かす慰めを、求め期待すべきでない相手に求め、より深い失望、さらには絶望に陥る悲劇を、私たちはここにも見ます。

(3)5節後半、「(なぜなら)彼女の多くのそむきの罪のために、/主が彼女を悩ませた」。哀歌の詩人は、エルサレムが破れ、神殿が汚される姿を正面から見つめているだけはありません。さらにこの悲劇が起きた真の原因がなにか根元まで掘り下げています。参照8節、「エルサレムは罪に罪を重ねて、/汚らわしいものとなった」。

 イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解き放ち給う恵みの神。イスラエルが恵みに応答するように、恵みの神は、祝福の約束と呪いの警告をもって語りかけ、恵みの契約を結ばれたのです。参照申命記28章43、44節。

 「そむきの罪」とは、その恵みの契約に背を向けることを意味します。度重なる預言者たちの警告に耳を貸さず、ついにエルサレム崩壊を招いてしまったのです。

 1章5節、14節、22節と哀歌の詩人が三度繰り返し強調している、「そむきの罪」。これこそ、エルレムが崩れ去り、神殿が破壊、民の指導者がバピン捕囚となってしまっている中で、直面しなければ本当の問題です。

[3]7節-11節。仇のあざわらいの中で、主への叫び。
(1)「仇はその破滅を見てあざ笑う」(7節)
「その民が仇の手によって倒れ」た事実だけなく、その事実があざ笑いの種となるのです。これにより、エルサレムはなお深く傷つきます。

(2)二つの「主よ」、9節後半と11節後半
1-11節までは、今まで見て来たように、「この町」(1節)、「シオン」(4節)、「エルサレム」(7節)と、エルサレムは、3人称単数で描かれています。しかし、9節後半と11節後半、カギカッコの部分では、1人称で直接主なる神に呼びかけています。

 エレミヤ10章1-25節に、その代表的な実例を見る、生ける創造者なる神と空しい偶像と鋭い対比。
①「主よ。私の悩みを顧みてください」(9節)。

②「主よ。私が、卑しい女になり果てたのを
よく見てください。」
3人称と1人称、それぞれを用いて描いている両方が、哀しみの深さを示すため大切です。12-22節で、シオンが1人称で語り、直接苦悩を訴えている部分は、来週味わいます。

[4]結び
(1)昔と今のように、哀歌の詩人は、 時の流れや歴史の中で物事を見ています。これは、主の御手の中で物事を見ることです。参照詩篇31篇15節。
時の流れ・歴史大切に物事見るため、大切なときの物差しを私たちは与えられています。
① その一つは聖書を貫き、教会の歴史を貫くものです。 天地創造から主イエスのご再臨にいたる、神がご統治なさる万物の歴史。その背景の中で、アブラハムからダビデまで、約 千年。ダビデから主イエスまで約千年、参照マタイ1章1節。そして主イエスから私たちまで、二千年。私たちのように小さな存在が、少なくとも四千年の歴史を視野に入れて物事を見る恵み。

②もう一つは、沖縄、日本の歴史の物差しです。この場合も、琉球処分、1945年、1972年など、エルサレム崩壊の場合のように、特別な出来事の持つ意味を繰り返し考えながら、その物差しで物事を見て行く営み。

③さらに私たちの人生の物差し(詩篇90篇10節)。

(2)「悲しむ者は幸いです。その人は慰められからです」(マタイ5章4節)と主イエスが語られている通り、聖書が言う意味での悲しみを知らなければ、聖書の言う慰めも経験することができない。本当に喜びの福音を心に刻まれた者の心から、哀歌が歌われるのです。

 (3)ルカ13章33-35節、19章41-44節。
主イエスの「ああ、エルサレム」。

イザヤ53章3節、「悲しみの人」主イエス

                    
『私シオンの嘆願(たんがん)』     哀歌1:12-22
「・・・神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。
『キリストは肉において現われ、
霊において義と宣言され、
御使いたちに見られ、
諸国民の間に宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、
栄光のうちに上げられた。』 」(Ⅰテモテ3章15節後半、16節)。       

[1]序
(1)今朝は、1月の第2主日、成人となられた方々に注ぎ続けられた恵みを感謝し、今後の歩みの上に祝福を祈るときを持て幸いでした。そして今年も、毎月第2主日礼拝後は、3つの集まりを持ちます。
まず会衆聖歌隊の練習です。糸数英子姉が今年も指導してくださいます。その直接の実は、主日礼拝における特別賛美という形で現わされていること、私たち誰もが認め感謝しています。しかし目に見えない形でも、大切な役割を果たしてくれています。聖歌隊の人々が訓練され続けることにより、その方々が加わる会衆の賛美が少し少しではあっても良い影響を受けないはずがありません。そして会衆の中から、今年12回持たれる予定の聖歌隊の練習に新しく加わる方が起こされますように。

 次に音楽委員会。一人ではだめでも、二人いれば会になると、小さな歩みを続けています。特に新しい奏楽者が起こされるように祈りつつ。

 そして役員会。今年12回、そして来年3月までには15回開かれる役員会。その1回1回が、そして15回の役員会全体が、来年4月を迎えるためにどれだけ大切であるか言うまでもありません。恵みと喜びが役員会の上に、そして役員1人1一人に注がれ続けるように祈りましょう。

(2)今朝は、哀歌の味わい2回目。先週の1章1-11節に続き、12-22節に聴従したいのです。1-11節においては、「この町」(1節)、「シオン」(4節)、「エルサレム」(7節)と、エルサレムは、3人称単数で描かれていました。その中で、9節後半と11節後半、カッコの部分では、「主よ。私の悩みを顧みてください」(9節)、「主よ。私が、卑しい女になり果てたのを/よく見てください」(11節)と、「私シオンが主なる神に直接呼びかけている点を注意しました。

 12節から22節では、「主が燃える怒りの日に私をなやまし」(12節)とあるように、私・シオン(エルサレム)が直接苦悩を訴えています。

 ところが、17節では、「シオンが手を差し出しても」と、3人称で描かれています。9節後半、11節後半の場合と同様、この17節も特に注意したいのです。

[2]「シオンが手を差し出しても、これを慰めるものがいない」12-17節
(1)12-16節。
①ここで描かれている内容は、あの紀元前586年の出来事です。バビロンによりエルサレムが包囲され、ついには陥落(かんらく)してしまったのです。神殿は汚され、その宝は持ち運ばれ、指導的立場にいた人々もバビロンへ捕囚の民として連れ去られてしまいました。 

 注意したいのは、この出来事を書き記す描き方です。12,13節、さらに14節後半にあるように、何が起こったか、「私」の経験として生き生きと浮き彫りにしています。シオンが人格ある存在であるかのように、哀歌の詩人の口を通し直接語っている、あるいは詩人が余りにもシオンに対し心を注ぎ込み、ついにシオンとあたかも一体になっているかのように、私・シオンは語っているのです。いずれにしても、詩人のバビン捕囚についての思いはただならぬものがあります。

 特に、「私は泣いている。/私の目、この目から涙があふれる(16節)と、悲惨な現実を前にして、私・シオンの思いがどれほどのものであるか強調されています。
参照2章11節、3章48、49節。


②「私のそむきの罪のくびきは重く」(14節前半)と、5節、8節に見たと同じように、悲惨な現実の真の原因は、主なる神に対するエルサレムの罪であることを詩人は明言しています。

(2)17節。
①「シオンが手を差し出しても」と、12-16節で私・シオン自身のことばをもって描いて事柄を、シオンを3人称で表現して実況放送のことばのように伝えています。

②そして「これを慰める者はいない」と続きます。
16節の私・シオンの「私を元気つけて慰めてくれる者が、/私から遠ざかった。」との直後に、「慰める者はいない」と繰り返しているので、伝えるべきメッセージは一段と強調されて伝わります。
1人称で描こうが、3人称で描こうが、繰り返し強調されるのは、慰める者がいない事実(1章2、7、9、21節、4章4節)です。

[3]「主は正義を行われる」、18-22節
(1)「主は正義を行なわれる」18,19節
①「主は正義を行われる」、「主は正しい」(新共同訳)。
参照詩篇119篇137節

 哀歌の詩人は、バビロン捕囚の現実に直面して、すべてのものやすべての考えが内に外に揺らぎ、崩れて行くようななかで、なお主なる神の真実を信じ仰ぎ、告白しています。建物にとって、土台や柱が大切であるように、私たちの信仰の歩みに取っても柱が大切です。ここで哀歌の詩人がなしている、信仰告白は、まさに柱です。その柱の背後に、神の義が不動の柱としてしっかり建っている事実に哀歌の著者は目を注ぎ続いています。

②しかし柱がしっかりしていても、罪との戦いはあるのです。「主の命令に逆らった」(18節)つけは、「私の若い女たちも、若い男たちも、/とりこになって行った」(18節)とあるように、特に若い世代にまわり、彼らは捕囚の民とされてしまったのです。 

(2)「主よ。ご覧ください。」20-22節
 「道行くみなの人よ。よく見よ」(12節)
  ↓
 「主よ。ご覧ください」。訴える相手に視点が定まった中で、苦しみの訴えも、「私のはらわたは煮え返り」(20節)とさらに深くなります。
そして何よりも、「私が逆らい続けたからです」(20節)と罪を認める思いをさらに深められています。

[4]結び

(1)哀歌の詩人が、シオン(エルサレム)と一体となり、私・シオンとして哀歌を心の底から歌っている姿に深い感動を覚えます。

 エルサレムが一人の人格のように描かれていると同様に、教会も「小羊の妻である花嫁」(黙示録21章9節)とあるように、生きた人格を持つかのように描かれています。その教会は、「真理」と深く結ばれています。そしてⅠテモテ3章15節後半と16節を切り離してはいけないことをもう一度確認したいのです。何が柱かが大切です。


(2)哀歌の詩人が強調しているように、私たちは誰に、どのような慰めを求めているのかが、最重要な課題です。
慰めを求めてはならない人やものに、私たちは慰めを求めようとしていないか。また度重なる失望の結果、真の慰めを求めることを投げ出していないか。 

預言者により明らかにされた、捕囚からの解き放ちを伝える慰めの約束は(イザヤ40章1節以下)、主イエスにおいて成就され(ルカ2章25-32節)、慰め主なる聖霊ご自身の働きを通して、私たちの内に現実となっています(Ⅰコリント1章3-7節)。


             『ああ、主はシオンの娘を』  哀歌2:1-10
 「神は、キリスト・イエスを、その血をよる、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今まで犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3章25、26節)。

[1]序
(1)今朝は、1月第4主日の礼拝、新しい年の歩みも1箇月を経過しつつあります。午後には、教会学校教師会、オリブ園訪問が予定されています。

 今朝は、哀歌の1章から2章に読み進め、2章1節から10節を見たいのです。

[2]主の御怒り、 2章1-5節。
(1)哀歌1章1節から11節では、シオン(エルサレム)を、哀歌の詩人が実況放送をしているかのように描いている事実を注意しました。紀元前586年のエルサレム陥落(かんらく)、バビロンの捕囚の出来事を生き生きと描いている様を見てまいりました。

 そして1章12節から22節では、私シオン(エルサレム)自身が語っているように描かれている点を注意し味わったのです。
特に、1章9節後半の主なる神への祈りの言葉に注意しました。
 「主よ。私の悩みを顧みてください。
敵は勝ち誇っています。」(1章9節後半)

 「主よ。私が、卑しい女になり果てたのを
よく見てください。」(1章11節後半)。
 また私シオン(エルサレム)が自ら語っている1章12節以下の言葉の中で、突然シオン(エルサレム)を実況放送のアナンサーの語り口で描いている17節も注意しました。その中でも、
「主は仇に命じて、
四方からヤコブを攻めさせた」は、2章1節以下理解のため大切な鍵です。

(2)主なる神ご自身の視点から、2章1-5節。
 哀歌2章1節、「ああ、主はシオンの娘を」に見るように、哀歌の詩人は深い思いをもって語り始めています。そしてこれに次ぐ5節までの箇所では、1章17節、「主は仇に命じて、/四方からヤコブを攻めさせた」が示すように、紀元前562年のバビロン軍によるエルサレム破壊の背後に、主なる神ご自身の御意志があったと指摘、出来事の真の理由を示しています。

①御怒り
1節では、「御怒り」を2回、続いて3節でも繰り返し用い、強調しています。 この点を注意したいのです。
 1節前半、「ああ、主はシオンの娘を
御怒りで曇らせ」。

 1節後半、「御怒りの日に、
  ご自分の足台を思いだされなかった」。

 3節では、「燃える怒りをもって、
イスラエルのすべての角をおり」

②「御怒り」と関係深い、「憤り」、「憤る」も、2節と4節で繰り返し用い、強調しています。
2節、「ユダの娘の要害を、憤って打ちこわし」

 4節、「シオンの娘の天幕に
火のように憤りを注がれた」

③さらに主なる神とイスラエルの関係について、「敵のように」との譬えを、やはり2回繰り返し、強調しています。
 4節、「主は敵のように、弓を張り」

 5節、「主は、敵のようになって、
イスラエルを滅ぼし」
主なる神の御怒りは、主なる神のきよさや義と深く関係します。主なる神の愛と共に、創造者なる神の人間に対する関係において、基盤です。
イスラエルの民がどのようになっても、無関心であるようなお方ではないのです。例えば、イスラエルの民は、荒野の旅において、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝む罪のために、主なる神の怒りを受ける事態に直面しました。
参照出エジプト32章8、9節。

[3]聖所と城壁 、2章6-10節。
 6節から10節では、聖所と城壁と、神殿の中心と神殿を取り囲む確かな守りに焦点を絞り、紀元前586年の出来事の深刻さを描きます。
(1)聖所にまで至る段階
①「ご自分の幕屋を投げ捨てて、
 例祭の場所を荒れすたらせた。」

②さらに、
「主はシオンでの例祭と安息日とを忘れさせ」(6節)と続けています。 

③そしてついには、
「主は、その祭壇を拒み、聖所を汚し」と、中心点を描きます。

(2)城壁
このように神殿の内部へと指摘な進む一方で、神殿を囲む城壁ついても目を注いでいます。
①「その宮殿の城壁を敵の手に渡された」と、敵の攻撃の背後に、主なる神の意図を見ています。

②「主は、シオンの娘と城壁を荒れすたらせようと決め」。

 エルサレムの陥落(かんらく)について、エレミヤは、以下のように描いています。
「カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。」(エレミヤ39章8節)。

 「(バビロンの王ネブカデネザルに仕えていた侍従長といっしょにいたカルデヤの全軍勢は、エルサレムの回りの城壁を全部取りこわした。」(エレミヤ52章14節)。

 ③「塁と城壁は悲しみ嘆き」(8節)と、城壁が取りこわされることがいかに悲惨なことであるか、「悲しみ嘆き」と城壁そのものが生きており、感情を持っているかのように描いています。

[4]結び
エルサレム陥落、バビロン捕囚は、単に強い国が弱い国を飲み込んだと言うのではない、主なる神に対するエルサレムの罪の関係で、哀歌の詩人は深く理解。

 しかしそれがすべてではないのです。バビロン捕囚となった人々が、帰還(きかん)し、神殿の再建の喜びのメッセージを伝える者の声についてです。イザヤ40章9節に注意したいのです。
 「シオンに良い知らせを伝える者よ。
高い山に登れ。
エルサレムに良い知らせを伝える者よ。
力の限り声をあげよ。」   

 この「良い知らせ」こそ、福音です。ローマ3章25,26節が明示するように、主イエスにある罪の贖いを指し示すものです。私たちの罪の贖いとなってくださった、主イエスの恵みを改めて感謝したいのです。