「同時に」の恵み
[1]序
73歳それなりに年を重ねる恵みを、多少の負け惜しみを含めて、味わい喜ぶ日々です。
年若き日に、すべてを「神において」見、考える道を恩師渡邊公平先生が心に刻んでくださってから50年。徹底的に聖霊ご自身に信頼する祈りに根差す徹底的な聖書信仰は、私のような者の生活・生涯にもとても小さいけれども実を確かに結びつつあります。
90歳を越えた頃の渡邊先生には、沖縄と国立との距離の隔たりもあって、直接お会いできませんでした。今は主の御許に召された私の生涯の先生・渡邊先生に、「『同時に』の恵み」の小文をもって、関東に戻った報告の意味も込めて感謝の意を表したいのです。
[2]「主はただひとり」
申命記6章4節に見る、「主はただひとり」のメッセージは、旧約聖書を貫く大動脈です。
「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」
さらにこの「主はただひとり」のメッセージは、新約聖書を貫く基盤である事実は、マルコ12章29節、参照32節、ヨハネ17章3節、 Ⅰコリント8章4節、6節などにより誰でも確認できます。
マルコ12章29節、「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。』」
ヨハネ17章3節、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
Ⅰコリント8章4節、「また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。」
Ⅰコリント8章6節、「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」
[3]「同時に」
旧約聖書と新約聖書を一貫して、「主はただひとり」と宣言。
しかし同時に、主イエスに対して、「私の主、私の神」(ヨハネ20章28節)と明確な信仰告白がなされています。
その際、ペテロがコルネリオに対してなした激しい拒絶も、
「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。
するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言った。」
(使徒の働き10章25、26節)。
自分たちを礼拝しようとする群集に、バルナバとパウロがなす衣を裂いての叫びも、
「これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(使徒の働き14章14、15節)。
主イエスは一切なさず、平然と神としての礼拝を受けていると福音記者は明記しています。
このイエスを神とするキリスト信仰は、「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8章58節)と、自らを神と意識し、そのように教えた主イエスご自身からの賜物です(ヘブル12章2節)
。
また聖霊ご自身の神性は、主イエスの聖霊を汚す罪の教え(マルコ3章28、29節)において、特に鮮明です。
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。
また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
[4]結び
「主はただひとり」。
「同時に」、御父、御子、御霊ご自身は、それぞれ全き神性を持たれる、三つの位格。
この両面を共に信じ、受け入れることを許されている恵みを覚えます。
すべてを「神において」、そうです、生ける三位一体なる御方から考えるのです。
ですから、各地域教会が教会、「同時に」JECA・日本福音キリスト教会連合全体が教会と受け入れるのです。
「同時に」の恵み。この泉・イズミ(詩篇36章9節)を、各個教会主義などイズムにすり替えないようにしっかりと自戒。これが年を重ねることの恵みへの私なりの一つの応答です。