アンヨをもって、テテもって

[1]序
(1)入院
 2009年12月18日(金)、脳梗塞のため那覇市立病院に入院、明けて1月13日(水)、リハビリに集中するため大浜第一病院へ移ってからの日々、多くの方々の祈りと好意に支えられ、4月4日のイ−スタ−を前に、4月2日(金)退院できました。
今回の経験、1963年から1967年のアメリカ・ニュ−イングランドへの留学に匹敵する深い学びのときであり、しかも短期集中の楽しくて、楽しくての毎日でした。

はじめから終わりまでの日々、実に多くの方々との交わり・交流は、幾重にも重なる豊かなものです。
祈り
処々各所の方々の祈りが一身に注がれ、
「信仰による祈りは、病む人を回復させます」(ヤコブ5章15節)との約束の成就を経験し、この期間本当に祈りが一段と身近なものとなりました。
 しかも祈りの中心は携帯電話を用いてのそれで、大きく広がる様々な地域の方々と携帯を通じて祈りを合わせる恵みを味わいました。
手紙、メ−ル
また左手・指が不自由ではあっても、右手を自由に用いることができ、時間は今までより圧倒的かかりますが、手紙を書き続けることができたこと、やはり小さくない恵みでした。厳しい制約の中でメ−ルもそれなりに活用。
来訪
特に大浜第一病院ではほとんどの病室が個室でしたので、近くから遠くから訪問くださった方々と落ち着いた対話を重ねることができ、訪問くださった方も訪問を受けた私も、ともどもに心満たされました。

(2)埼玉の松本さんから
そうした日々の中で、埼玉の松本鶴雄さんと直接連絡が取れたのです。
2009年11月に出版した、著作集Ⅰ『愛の業としての説教』(ヨベル)を私が送付していたところ、松本鶴雄さんから電話を、さらに丁寧な読書感想の便りを受け取りました。
 電話では時空を越えて話が弾み、その後、私たちの交流の絆を体現するかのように、
『神の懲役人−椎名麟三 文学と思想』(青柿堂)が埼玉から遠く沖縄まで送り届けられたのです。
また私からの応答としては、文芸同人誌・『修羅』の同人に加えていただく手続きを取りました。
50年にわたり説教を続け、神学論文やエッセイなどの文学類型で書き発表し続けてきました。しかし今回入院中に経験し思索したことを表現するには、それに相応しい別の表現方法や場があるのではないかと考え始めていたところでした。
松本さんとの長い年月絶えることのなかった交流に後押しされ、同人加入は71歳にしての新しい小さな一歩。

[2]埼玉県寄居話しは、1960年代後半、寄居へと時空を越えて飛びます。
(1)小さな牧師館の狭い部屋での読書会
 1967年10月1日、4年間の留学中待ち続けてくれた寄居キリスト福音教会に、私は戻ることが出来ました。1965年4月12日に結婚式をあげた妻君代、1967年の8月27日に誕生したばかりの長男忍望と共に。迎える側も、迎えられる側も、ひたすら喜びに満たされた恵みの時でした。
 そうした雰囲気の中で、一つのことが始まったのです。
当時寄居高校定時制の教師であった松本さん、同僚の藤田さんと私を中心に、小さな牧師館の狭い部屋でこじんまりとした読書会を始めたのです。
 藤田さんが、マルキストと自己紹介した声が耳に、いや心に今も残ります。
 その時より5年前に書いた、日本クリスチャン・カレッジでの私の卒業論文、『ドストェスキ−の神学的一考察−『悪霊』に於ける人神論と神人論−』について、カナダとアメリカから寄居に来られていた二人の婦人宣教師が松本さんに伝えていたことが、読書会発足の種になったと記憶しています。
 読書会はめっぽう楽しく、定時制で私が英語を教えられないかお二人は努力を払われました。しかし私が卒業した日本クリスチャン・カレッジが文部認可の大学でないため、県庁の許可が下りず、没。

(2)「アンヨをもって、テテもって」
1970年1月25日、寄居キリスト福音教会発行、『月報』に、以下のドストェスキ−がらみの文章を載せました。

「二歳半になる長男忍望が教会学校の幼稚科出席するようになってから、種々興味深い事実を観察しています。たとえば、暗誦聖句についてです。
 最初に習った暗誦聖句は、ガラテヤ5章13節の「愛をもって互いに仕えなさい」でした。暗誦聖句はと聞くと、「アンヨをもって、テテもって」と忍望は答えるのです。初めは、何のことか全く理解できませんでした。アンヨではなく、愛と言っているとばかり思い込んでいたので、どうして、テテ(手)が出てくるのか分からなかったのです。
しかし、やがて忍望は愛と言っているのではなく、アンヨ(足)と言っているのがはっきりすると、すべてが理解できるようになりました。
愛という言葉は、二歳半の忍望にとって、全く無縁なものです。
ですから、愛という言葉を聞いた時、その発音に比較的近い、アンヨ(足)と誤解したのは、至極自然なことと言えるでしょう。アンヨと言えば、どうしても、テテ(手)が出てくるわけです。それで、暗誦聖句と聞かれれば、「アンヨをもって、テテもって」と答える理由が分かりました。分かってみれば、何でもないことです。
 ところで、「愛をもって互いに仕えなさい」との励ましは、結局のところ、「アンヨをもって、テテもって互いに仕えなさい」と理解され、実行されねばならないのではないか。こうしたことを考えながら、ドストエフスキ−の『カラマーゾフの兄弟』を思い出しました。あの作品の中で、ゾシマ長老は、アリューシャが信仰と愛とによって、この醜悪な世界を浄化し、美化していこうと目指す時、「然るに実行の愛に到っては、何のことはない労働と忍耐じゃ」と語っています。
 十字架というキリストのからだにおける卑下により神の愛を示された私たちは、労働と忍耐を通し、自分の生かされた場所で実行の愛を具体化して行く道を歩む。神の愛を賛美しながら、現実の人間生活から逃避することなく、身に受けた神の愛の故に、苦難と悲惨に満ちた現実にしっかりと留まり、与えられた生を他者との人格的交わりを通して生き抜く。これが、人間・私、キリスト者に求められている生き方です。
 今年、私たちの信仰が、愛という抽象的な言葉に留まるだけでなく、手や足という具体化、現実化されていくこと願わざるを得ません。
 「愛をもって互いに仕えなさい」と「アンヨをもって、テテもって互いに仕えなさい」とは、決して別のことではないようです。」

寄居時代の忘れ難い思い出、そして今回松本さんが、『神の懲役人−椎名麟三 文学と思想』を私に送ってくださる切っ掛けともなったのは、
1969年の松本さんの著書、『丹羽文雄の世界』(講談社)の出版です。
その出版記念会の案内を受け、この種の集いに初めての参加で多少の緊張感を持ちながら、池袋の会場に向かったのです。
 開会時間のかなり前に着いたところ、私よりも先にもう一人の方がすでに到着しておられたのです。
椎名麟三さんでした。自己紹介後、話が私たちの読書会に及んだ時、
「それで分かった。松本さんが罪や悪について深く書けるわけが。」と椎名さんは明言なさったのです。この人は、聖書でものごとを読む方なのだなと私の思いの深くに刻まれました一事を、今もありありと記憶しています。。
 勿論、私が椎名さんにお会いしたのは、この時一回限りです。
そして驚きました。『神の懲役人−椎名麟三 文学と思想』(236頁)に、
「その後、出版記念会で初めて(椎名麟三さんに)お目にかかる機会を得た。後にも先にもこれが最後であった。」とあるではありませんか。

[3]大浜第一病院にて
(1)丸太の笑い
 2009年12月18日(金)夕方、キリスト教書店での仕事から帰ってきた妻君代は、私の様子が普通ではないのに気づきました。私は一晩寝れば大丈夫と威張っていたのです。しかし母親が脳梗塞であった経験を持つ君代は、脅したり、賺(すか)したりして、そんな私を病院へ車に乗せ連れて行ってくれたのです。私は、まだ何とか歩けました。
病院では、直ぐに治療開始。それにもかかわらず、一晩経過した時点では、左半身不随、丸太となってベッドに横たわっていました。
その時、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」(詩篇119:67)の告白は、私の告白ともなりました。
それで大浜第一病院に移った後、アウグスティヌスの『告白録』を読み始めたのです。
またそのどん底の状態の中で、からだをめぐる思索、医療従事者の方々との出会い、医療のあり方についての考察など貴重な第一歩を踏み出したのです。
大浜第一病院で一日3時間のリハビリを楽しみ続ける中で、私のうちに一つのことが生じたのです。からだの奥から笑いが満ちてくるのです。箸がころんでも笑う年頃の娘のあり様で、「ウフフ、ウフフ」なのです。脳梗塞のため、どこか緩んでしまったのではないかと君代が案ずるほど。
そのような日々の中で、旧約聖書詩篇126編、その1−3節を読んでいるとき、「これだ!」と心に受けとめました。
「主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなされた。』
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。」

リハビリの一つは、言語治療です。舌の動きに集中しながら発声訓練。「舌、舌」と生涯でこれ程「舌」を意識した日々はありません。「私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」とは文字通りの実感なのです。口と心に満ちる喜びと笑い。
誤解を恐れず言えば、今回の経験、小さな小さなスケールではあっても、イスラエルの民が経験したバビロン捕囚からの解き放ちと同質な出来事であり、その後落ち着いた生活にあっても、解き放ちの喜びを生活の基底に覚えるのです。

4月2日の退院後は、不自由な左手・指や杖を用いての三階のアパートへの上り下り、さらに思わぬことでも日々我が身の弱さを底に徹して経験したのです。しかし同時に恵み深い支えをその時々に味わい知らされました。
 
(1)からだ
100日余の入院生活を通して、左手の指が発症後初めて1ミリ動いた瞬間などをはじめ、自分はからだ・からだとしての私を徹底的に自覚し続けました。
しかし同時にからだ・人間・私は、まさに人格的存在なのだ。そして永遠の愛の交わり・三位一体なる神こそ、人格的存在である人間・私の根源的な源・支えなのだと確信を深め続けてきました。

まさにからだであり人格的存在である人間・私に注がれ溢れる喜び、この「存在の喜び」を、不自由な左手・指や杖を用いての歩みながら、しみじみ味わい知らされつづけたのです。
ですから、感謝の応答をなさざるを得ないのです。永遠の愛の交わり・三位一体なる神こそ、まさに人格的存在である人間・私の根拠である事実を、ヨハネ福音書からの説教・宣教において展開できればと願い、入院中の読書会また退院直後の主日礼拝で小さい一歩を踏み出しました。
さらには、医療の現場や医学教育における、三位一体論的根拠付けを展開できないか思い巡らし始めました。
その基盤は、創世記2章7節です。
「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」

(2)喜びカタツムリ
 2010年5月の中旬過ぎ、松本さんから、再度電話を頂きました。
松本さんは転倒なさり入院、退院後の今は、杖を用いて歩行と。
私の応答は、「それでは杖仲間、杖友、スッテキ・フレンドですね。
私は、自分のことを喜びカタツムリと意識し、そう呼んでいます。」と。

4]結び
 あの松本さんから送られた、『神の懲役人−椎名麟三 文学と思想』を読まして頂きながら、聖書の二箇所が特に心に浮かびました。
Ⅰコリント10章31節とピレモン9です。

(1)Ⅰコリント10章31節
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

 ここに、ニヒリズムとの対比として日常、日常性の根拠が明示されています。
椎名麟三の日常への愛(『神の懲役人』102頁)は、上記の箇所に代表される聖書の宣言の深く豊かな受け止めとの側面があるのではないか。

(2)ピレモン9節
「むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが」

 使徒パウロは、現実には大ロ−マの囚人であり、獄屋に捕らわれていた。
しかし復活のキリストとの出会いの結実として、ロ−マを相対化でき、「キリスト・イエスの囚人」と深い自己理解をなし、そのように明言しています。

 椎名麟三において同様な事実を松本さんは見ています。
「現世の懲役人シンドロームをついに乗り越えて、ほんとうの自由を根拠とした生き方に到着しようとした。それは同じ懲役人でも<神の懲役人>への大転換であったろう。」(『神の懲役人』237頁)。

 以上の二点は、椎名麟三の聖書理解の深さ、豊かさを示唆しており、それが椎名の思想の基盤であると言えないだろうか。