黙示録を手紙として

黙示録を手紙として

★沖縄信徒聖書学校で黙示録
 沖縄での25年の滞在の中で、世界一小さいと神学校と自認していた場とは別に、沖縄信徒聖書学校がの役割が私にとり喜びでした。
 火曜日と金曜日の夜、それぞれの地域教会に深く根ざす方々が集い、重荷聖書そのものを学ぶ2年間。個人にとっても地域教会にとっても、小さくない意味を持っています。私は、終始黙示録を担当しました。

黙示録を手紙として
[一]序
 ヨハネの黙示録に対する二つの受け止め方。
①難解な書として受け止められている場合が少なくない。
②しかしそこに、初代教会の人々に対する主イエスの慰めに満ちた力強い励ましのメッセージが盛り込まれていると見、個人的にも多くの励ましを黙示録から得ている方々も。
 このヨハネの黙示録を、以下に見るように、手紙としての性格をも持つ面を重視することにより、この書が私たちにより親しみやすいものになれば幸い。

[二]いかに書かれているか
(一)三つの大きな区分
 ヨハネの黙示録に何が、いかに書かれているか。その大きな流れを見ると、はじめと終わりの部分に二つの区切りがあることを見いだします。
一つは,3章22節と4章1節の間。もう一つは、最後の章22章5節と6節の間の区分です。この区切りに従い、ヨハネの黙示録の大きな流れを、次の三つの部分に分けて考えてみたいのです。
 ①1章から3章の部分
 ②4章1節から22章5節の部分
 ③22章6節以下
 この中で、①と③の部分は、新約聖書が書かれた時代の手紙の書き方で記されています。ヨハネの黙示録は手紙の枠組みの中に、4章1節から22章5節の多様な絵画的表現で描かれている部分が挟まれるようにして位置しており、全体が手紙としての枠組みを大切にして読むように書かれていると言えます。 

(二)手紙の受け取り人について
 ヨハネの黙示録を手紙の枠組みを大切にして読もうとすれば、当然枠組みの中で受け取り人について直接触れている点に注目せざるを得ません。たとえば枠組みのはじめの部分では、受け取り人について以下のような内容を伝えています。
 1章4節,「ヨハネから,アジアにある七つの教会へ」.
 1章11節,「あなたの見ることを巻き物にしるして,七つの教会,すなわち,エペソ,スミルナ,ペルガモ,サルデス,フィラデルフィヤ,ラオデキヤに送りなさい.」
 さらに枠組みの終わりの部分では、
 22章16節、「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。」
 22章21節、「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように」。これは手紙の最後に見る、受け取り人に対する祝祷として定まった形式で書かれています。
 これら受け取り人について書かれていることに意を注ぎ、ヨハネの黙示録の流れを全体として大きく見ると、1章4節に見る,手紙の差出人と受け取り人をはじめに明らかにする手紙の書き出しのあいさつから、22章21節の「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように、アーメン」に至るまで、結局手紙として読まれるように意図して書かれたし、そのように読まれるべきと判断できます。
 
手紙の受け取り人である七つの教会は、1章11節では一つ一つ特定の地域名で明らかに記されています。何よりも,私たちは2章1節の「エペソにある教会の御使いに書き送れ」から、3章14節の「ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ」に至るまで、一つ一つ特定の地域教会に書き送られたとする手紙を実際に読むことができます。
しかも七つの地域教会それぞれが他の六つの教会への手紙をも読むように構成されており、単に地域に根差す教会という教会の地域性以上のものを指し示しています。七つの教会はそれぞれ限られた地域(エペソならエペソ)に根差しながら、小アジアというより広い地域としては七つが一つの教会として生かされている姿を見ます。二,三章の手紙は、その七つで一つ、一つで七つの教会に書き送られた手紙として読まれるように書かれています。
さらに二、三章を手掛かりに、ヨハネの黙示録全体が地域に根差し地域を越える七つにして一つ,一つにして七つの教会に書き送られた手紙として読まれるように意図されていると見たいのです。
ただ地域を越えるばかりでなく時代をも越える、いつでもどこでもそこに存在する教会(公同の教会)へ書き送られた手紙としての性格が現されています。ですから、こうして今、このとき、この場に生かされる教会への手紙として読むことが許されています。

[三]歴史を主イエスにあって見る目
 ヨハネの黙示録を手紙として読むことを中心に見てきました。
次に何が書かれているのか主題や、何故書かれたのか目的について考えると、すべてを主イエスを中心に見ている点が浮かび上がってきます。
その一つの実例として、三つの聖句を手掛かりに歴史を主イエスにあって見る見方について取り上げたいのです。 
 1章8節、「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる.『わたしはアルファであり、オメガである。』」.
 21章6節,「事は成就した、わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の源から、価なしに飲ませる。」
 22章13節,「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
(1)万物の起源について
 以上三つの聖句において明らかにされている第一の点は、歴史の起源についてです。主なる神こそ、万物の、歴史の起源を与えておられる。これこそ、聖書全体を貫く宣言で、何より創世記一章1節、「初めに、神が天と地を創造した。」において明らかに宣言しています。この一点こそ、聖書が明かにしている歴史の見方の土台です。

(2)万物の目標・完成について
 聖書は、歴史をぐるりぐるりと循環していると見てはおらず、目標を目指し一直線に進むものと理解しています(参照イザヤ65章17節,66章22節)。ヨハネの黙示録においては、歴史の終末が主イエスの再臨、新天使地の完成にあると内容を明らかにししています。

(3)起源から終末へ向かう途上
 以上のように、万物の起源が明らかにされ目標が確認されることにより、すべての歴史は、今、現に終末へ向かう途上にあると受け止められます。
そして今、ここにある時が終末へ向けて、掛け替えのないものであると教えられます。それぞれの時代に生かされる教会は、各時代において、今、そこで生き戦う意味を教えられ励ましを与えられるのです。

[4]結び
 ヨハネの黙示録は、歴史の各時代に生かされる教会が、それぞれの時代背景の中で、教理(教え)においても実践的生活においても、「聖い」教会として歩むことを目的として書かれているのを見ます。それは、聖なる公同の教会を信じると告白する事柄と堅く結ばれています.この目的が、ヨハネの黙示録において多様な絵画的、映像的な表現を用いて展開されている事実を見ます。その豊かな表現を用いて伝えられているメッゼージは、今、ここでの教会の歩みと世界・万物における主イエスの統治が決して切り離されたものではない事実を教え、この小さい歩みが決して無駄でないと教える慰めに満ちたものです.

ヨハネの黙示録の視点・どこから見るかと視野・何が見えるか

ヨハネの黙示録の視点・どこから見るかと視野・何が見えるか

(1)二つの見方
ヨハネの黙示録について,読み手の間に正反対の受け止め方があります。
①一方では,ヨハネの黙示録に見る独特の表現,いわゆる黙示録文学的表現に違和感を持ち、難解な書として、敬遠してしまう場合。
②もう一つの受け止め方があります。
表現の特殊性を認め、その限りでは難解な書であると認めるのです。
しかしヨハネの黙示録を困難な状況に直面する初代教会に与えられた、主イエスの慰めに満ちた力強いメッセージと見、個人的にも励ましを得ているのです。

筆者・宮村は後者の受け取り方をしています。ヨハネの黙示録に見る表現も,映像や音響を用いた効果的な伝達と積極的に受け止めたいのです。
黙示録では、主イエスにある救いが単に狭い意味でのキリスト者・教会を対象とするだけではなく,創世記1 章1 節の「初めに,神が天と地を創造した」と同じ雄大な視野で明示されている事実に深い感銘を受けます。
そうです。救済論・神様の救いの恵みと創造論・神様の創造の事実との深みに至る一致です。

(2)一つの実例として
ヨハネの黙示録21章1-8節に見る黙示録の聖霊ご自身についての教えを垣間見たいのです。
①21 章1節
前後関係
21 章1節の理解のためには,直前の20 章11-15 節との関係に注意することが大切です。
そこでは,「地も天もその御前から逃げ去って,あとかたもなくなった.」(11 節)と,天と地の決定的な限界(日本の国歌 「ちよにやちよに」の思想と鋭く対立)を明らかにしています。
しかしそれだけではありません。
「死んだ人々は,これらの書物に書きしるされているところに従って,自分の行ないに応じてさばかれた」(12 節)とあります。
天地の限界と対照的に、おのおの「自分の」と,人間一人一人の尊厳に焦点を絞っています。
天地があとかたもなくなっても、また死の現実の前でも、厳と存在する一人の人間の存在そのものは不動です。まさに個の確立です。
21 章1-8 節は、上記の事実を踏まえ、天と地があとかたもなくなるだけでなく,もう一つの面に意を注ぎます。
「新しい天と新しい地」(1 節)と、宇宙全体の広がりの中で、新しいエルサレム、聖なる公同の教会を描いているのです。

②全体の構造
「新しい天と新しい地」。天地の限界を覚めた目で見据えているだけではないのです。
救いの歴史が再創造を含む、いかに豊かな広がりを持つかしっかり示しています。
これは、日本の国歌 「ちよにやちよに」の思想と対立するばかりではない。
物質を悪と見る思想とも根本的に対立しています。初代教会以来のグノーシス的傾向との徹底的な戦いです。

「新しい」。一方では,「だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って,見よ,すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5 章17 節)とあるように、「新しさ」は、すでに主イエス・キリストの十字架と復活により現実となっています。
しかし同時に、新しさ」は,主イエスの再臨の時に,完成されるもので、「いまだ」現実とはなっていない面もあります。しかしそれは「やがて必ず」現実となるのであり,希望と忍耐をもって私たちは待望しているのです(ローマ8 章25 節)。

(3)創世記1−3 章
黙示録21 章1-8 節を味わう上で、改めて考えさせられることがあります。それは,創世
記1-3 章が聖書の味わいのために,いかに大切な基盤であるか、この事実です。
しかも3章の堕落・罪の背景として、2 章に見る本来の人間の姿。そして2 章の背景として、1 章の天と地の創造。この聖書の基盤と深く対応して,黙示録のこの箇所は描かれています。
その対応を大切にしてこそ、21 章1-8 節のメッ セージを十分受け取ることが出来るのです。

(4)視点・どこから見るかと視野・何が見えるか
視点・どこから見るか
21 章1-8 節について思い巡らすとき、新天新地をこのように描き得る視点は何かを探る必要があります。どこから見れば、このような見方ができるのでしょうか。
ヨハネの黙示録の著者・私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって,神のことばとイエスのあかしとのゆえに,パトモスという島にいた(1章9 節)と自己紹介しています(参照22 章8 節)。
著者は、パトモスと言う南北約16 キロ、東西9 キロの島にあって、そこを視点として、2 章と3 章に見る七つの教会それぞれ、またその全体に目を注いでいるのです。
パトモスに立ち、そのパトモスから,小アジアの七つの教会の現実をしっかり見据え、ヨハネは「イエス・キリストの黙示」(1 章1 節)を受け取り、伝えたのです(1 章11 節)。
しかしもう一つ,見落せない事実があります。
「私は,主の日に御霊に感じ,私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた」(1 章10 節)と記されている点です。
「御霊に感じ」と言うことが具体的に何を指しているにしても。「私ヨハネ」は,聖霊ご自身とかかわりを持ちながら、七つの教会を見、本書を書き送っていることを深く自覚しているのです。
この点は,4 章1,2 節を通し,さらにはっきりします。
そこでは、
「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。
『ここに上れ、この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』たちまち私は御霊に感じた。 する
と見よ。天に一つの御座があり,その御座に着いている方があり」と記されているのです。
ヨハネは、パトモスと同時に、「御霊に感じた」とある聖霊ご自身の導きを受けて、「ここに上れ」(参照11 章12 節)と提示されている場、そうです天的視点に立ち、見聞きすることを求められています。
それゆえ、パトモスと「御霊に感じて」と二つの視点から私ヨハネは見聞きしています。
またはパトモスと「御霊にあって」が深く結びつく一つの視点に立ってものごとを見ているとも言えます。

視野・何が見えるか
上記の視点に立ち見えてくるのは、一世紀末の小アジアの現実であり、教会の実態です。
しかしそれだけでないのです。
特定の時代の限定された場所の具体的な歴史と共に,全歴史,全世界が見えてくるのです。
創造から再創造までの全体です。
視野に入ってくるのは、何事であれ、その一部でなく全体。一面でなく、両面。
ヨハネ聖霊の導きを受けて、全体・万物を視野に入れている事実の一例として、
4 章11 節に記されている,讃美があります。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから」

(5)聖霊ご自身の働き
ヨハネの視点。
それは聖霊ご自身の働きと切り離せません。さらにその視点から視野に入ってくる万物も聖霊ご自身のダイナミック・力動的な働きにより支えられている事実を教えられます。
新しい天と新しい地。「わたしは,すべてを新しくする」(21章5節)と宣言されているように、
「すべて」,つまり物質も新しくされる対象なのであり、聖霊ご自身の働きの広がり、その豊かさを見るのです。

ヨハネの黙示録21 章1-8 節に見るメッセージと同じことを。パウロはローマ8 章18-25 節で伝えています。
個人生活、教会生活、社会生活など、そのいずれにあっても、つねに新しく改革されつつ、希望と忍耐もって営みを継続するようにパウロは勧めています(ローマ8 章25 節)。
聖書全体を通して、多様な表現で、統一したメッセーを提示している事実を覚えながら,ヨハネの黙示録21章1-8 節のメッセージを,図式化すれば,以下のようになります。

神,万物に法・秩序,人間
↑ ↑ ↑
↓ ↓ ↓
無神 万物が偶然・虚無。非人格的
父であり、主である神のご意志、人格的計画と秩序と共に聖霊ご自身の具体的原動力しての働きを、「私ヨハネ」は、小アジアの七つの教会に、そしてこの書を読む私たち一人一人に語りかけ続けてくださっているのです。
それへの応答は,宣教の神学や教会論の確立から,宇宙論聖霊論・聖霊宇宙論に及ぶ豊かな広がりを持ちます。このような課題は,人間の限界の中では,精神のバランスを崩してしまう恐れがある程のものです.
しかしその道は,本来は聖霊の実を結ぶ生活・生涯(ガラテヤ5 章22,23 節)であり,平静なものであると励まされます(オスラー博士講演集,日野原重明,仁木久恵訳,『平静の心』,医学書院)。驚くべき恵みです。そうです。実に驚くべき恵みです。

「四福音書・味読の手引き」

「四福音書・味読の手引き」

[Ⅰ] 序
 パウロは、テモテに「私の福音」を明示、Ⅱテモテ2章8節。
 「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」
 では、どのようにして。
 私たちに与えられている恵みの手段の大切な一つは、四福音書を、聖霊ご自身の助けを求めつつ読み続けて行く道、日々に、そして生涯にわたって。

[Ⅱ] マタイとマルコ
(1) マタイ
① マタイ1章1節
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図。」
アブラハムダビデの間は約千年、ダビデイエス・キリストの間も約千年、そしてイエス・キリストと私たちの間は約二千年の隔たり。少なくとも四千年の広がりを大切にマタイの福音書を味読。
② マタイ28章20節
「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも(日々に)、あなたがたとともにいます。」

この驚くべき約束、マタイの福音書の味読を通して、感謝。

(2) マルコ
① マルコ10章32節
「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。」
② マルコ16章7節
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。」
マルコの福音書の味読を通して、十字架に向かい先頭に立ち、私たちより先に私たちのガリラヤへ行かれる主イエスの姿を心に刻む。

[Ⅲ] ルカとヨハネ
(1) ルカ
① ルカ1章4節
「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」
ルカの福音書、そして聖書全体は、神の恵みの事実についての証言。
使徒1章1節〜2節
「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」
「前の書」とは、ルカの福音書。その内容を明示。続編・使徒の働きでは、使徒の働き1章8節、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」との、主イエスの約束が成就して3
いく事実を証言。
 ルカの福音書使徒の働きは、切り離してはならない。一度、
両者を一気読みされたし!

(2) ヨハネ
ヨハネ1章14節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
驚くべき、本当に驚くべき事実。
ヨハネ20章28〜29節
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」
どのようにして「見ずに信じる」のか。ヨハネを含む四福音書、聖書を聖霊の導きと助けを受けて味読し続ける。

[Ⅳ] 集中と展開 ヘブル12章2節
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

 四福音書を読み、生き、死ぬ生活と生涯。各自が与えられた地域に根ざし、地域を越えて。
 

9月13日(水)ヨハネ7章の味い、その32

9月14日(木)ヨハネ7章の味い、その33
リハビリの日、手描きの手紙など事務処理

https://youtu.be/3PAoZwneM_I
    ヨハネ7:53,8:1