今週の恵みは、孫弟子・井手北斗兄との実際の面談
今週の恵みは、孫弟子・井手北斗兄との実際の面談
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今週の恵みは、孫弟子井手北斗兄との実際の面談です、それも二度までの。
私たちを結ぶつけてくれるのは、敬愛する永田竹司先生です。永田先生は、私の著作集の編集長として愛労を重ねてくださっています、感謝。
宮村武夫・万年青年先生との対話の書
宮村武夫著作刊行委員会 編集実行委員長 永田竹司
宮村武夫先生は、いつも青年そのものである。二〇〇九年一月に古希を迎えられたにもかかわらず、そして同年一二月の突然の脳梗塞に倒れられたあと、ご本人、ご夫人の人並み外れたリハビリの努力によって回復された今も、宮村武夫先生は青年のままである。宮村先生の前では、教え子である私の方が先生より遙かに老人になったことを自覚させられてしまう。いつも福音宣教の未来を夢み、新しい可能性に挑もうと歩みを進める精神の若さは、うらやましい限りである。それが多くの人にとって、どんなに励ましとなってきたか、想像に難くない。ただ敢えて教え子の特権を行使して言わせていただくと、先生の若さに直接付き合われてきた方々のご苦労も並ではなかったであろう。君代夫人をはじめ、半径数メートルの近くで歩んでこられた皆さまに敬意を表さないわけにはいかない。
その勢いに巻き込まれ、私も宮村武夫著作刊行委員会に名を連ねることになった。まさに予定外の任務であるが、この強いられた恩寵は光栄・感謝以外のなにものでもない。
さてわたしは、「出会い」こそが人の人生を決することを経験してきた一人である。特に良き師との出会いがなければ、わたしはどうなっていたかと思う。登園拒否と園脱出を繰り返した保育園時代にも、今思えば恥ずかしくも、別れに人前で号泣した愛おしい先生との出会いがあった。夏休みに家庭科の和室で石膏を顔に流してデス・マスクを作ってくださった小学校の先生も忘れられない。今も、十一歳のわたしの顔が石膏で手元に残っている。中学や高校においても同じである。そして、東京キリスト教学園では、宮村武夫先生の恩師でもある渡邊公平先生が、手に負えない反抗生であったわたしたちのクラス担任となってくださった。旧約聖書学教授として韓国から赴任された金弘全先生との出会いがなければ、学園に四年間留まって生き残ることはできなかった。ヘブライ語を学ぶ意義もユダヤ教死海文書におけるセクトのメシア観を学ぶ学問的衝撃、旧約聖書の広大な世界をのぞき見た興奮。それに毎週といっても過言でないほど、金教授のお宅で奥様が準備された韓国料理の夕食をご馳走になった。
一九六六年から一九七〇年の四年間といえば、大学紛争たけなわの頃である。青年たちにとっては、既成に対する批判と抵抗が時代の雰囲気を構成していた。いつの時代でも誰でも恐らくそうなのだと思うが、若いキリスト者は自分のキリスト教信仰の正当化の根拠を模索し、信仰に生き続けることが単なる幻想やさ迷いではなく、たとえ自らの社会においてマイノリティーであっても、そのために生き、また死ぬ価値のあるあり方であるとの確信を得るために、格闘するものであろう。わたしは、自分自身を含め、自分の周りのキリスト教信仰のあり方に激しい不快感と不信感をもった。「本物」を求める飢え渇きを覚えた。わたし自身が退職を数年先に控えた大学教師として若い学生諸君を見ていて、あの頃の自分が青年期のさまざまな未熟で個人的な課題とキリスト教の神学的問題や課題とを勝手に混同し、一体化して大騒ぎをしていたにちがいないと反省させられる面も少なくない。
そのような時に、そのままのわたし、あるいはわたしたちを受け止めて、正面からわたしたちに向き合い、励まし、考えるべき学ぶべき先を指し示してくださる先生との出会いがあった。それが、わたしにとっては、既に触れた渡辺公平先生であり、金弘全先生であり、そして、宮村武夫先生であった。わたしたちが最終学年の四年生の時であった。教鞭をとられた最初の年の宮村先生は、教条主義とも権威主義とも無縁な青年のように、豊かな感受性に裏付けされた共感と知的な鋭さをもって、問題だらけのわたしたちと向き合ってくださった。信頼に価しない若輩に期待と信頼を惜しみなく寄せられた。
正規の授業があったかどうか、覚えていない。しかし、自主的な授業を計画し、他の三名ほどの学友と一緒にわたしは宮村先生にアーラント編の『ギリシャ語四福音書対観表』をテキストに、生まれて初めて新約聖書諸福音書を同一の段落単元ごとに、マタイ、マルコ、ルカ、そして可能であればヨハネと横断的に読むことを学んだ。簡単に言えば、伝承と編集という視点を意識して福音書の世界を知る最初の経験であった。福音書研究の基本の基本であるが、各福音書を始めから終わりへと縦に読むことしか知らなかったわたしには、「目からうろこ」の驚きであった。
聖書が証言する主イエス・キリストの福音に忠実でありたいとの願いはわたしのうちでますます強くなっていったが、そのことと、いわゆるプロテスタント保守派の福音主義教会のあり方や教条に対する自己同一化との間には深い隔たりがあるという認識も鮮明になりつつあった。このような思想的模索というより、迷いの過程で、宮村先生が牧会されていた埼玉県寄居の教会を訪ねたこともある。夜遅くまでさまざまな話しに付き合ってくださった。その後、移動された東京都下の青梅の教会に宮村先生を訪ねたこともある。宮村先生との相談のなかで、先生ご自身が学ばれたボストン郊外の北にあるゴードン神学校に留学することを決意した。ゴードン神学校とコンウェル神学校が合併したゴードン・コンウェル神学校の第一期生となった。そこでも宮村先生の師の一人であったロジャー・ニコル先生がわたしの担任であった。また、宮村先生の学生時代の同僚でハーバード大学でも同学仲間であったディヴィッド・ショラー先生との出会いが、わたしが新約聖書学を専攻し、さらにプリンストン神学校で学位修得の道を歩むことに繋がった。プリンストン神学校在学中にもわたしを宮村先生は訪ねてくださった。今、思い返すと、糸が切れた凧のようにわたしがどこかに飛んでいってしまわないように配慮してくださったのではないかとも思える。
宮村武夫先生との出会いと交わりが、わたしがいわゆる福音主義教会に対する反動と否定に終始するのではなく、その良さと欠点を総合的に相対的に受け止めることを可能にしていると思う。
あまりに個人的なわたくし事を述べ過ぎた。
本書に収められた宮村武夫先生の諸論文について、尊敬する先生への応答という意味でわたしなりの受け止め方を多少記させていただきたい。
巻頭言の中で、松谷好明氏が本書に収められた宮村諸論文の特徴と内容の整理を見事に提示されているので、ここでは繰り返しになることは避ける。
本書の諸論文は、学問的研究自体を一歩進めるための学術専門の論文として評価すると、基本的に堅実でバランスのとれた保守的な学問的質は確保されているものの、率直に言ってそれ以上でも、それ以下でもない。しかし、宮村先生ご自身が「あとがき」で触れられておられる通り、「説教の充実を目指す実践的な目的のために書かれた」論文として評価されるべきであろう。
以下に、幾つかわたしの受けた感想を断片的に列挙させていただきたい。
第一の論文「パウロのギリシャ語pas(すべて)の用法」の釈義的議論および論旨については、異論は全くない。ユダヤ教にも見られる「一と多」の対比議論がロマ書において唯一なる神、唯一なるキリストという「一」とユダヤ人もギリシャ人も全く差別されない「すべて」の人という展開に変えられていることへの注視は、まさに福音の神髄を理解するのに決定的なことである。伝統的な「一と多」の議論では、異邦人と呼ぶところの世界の人々に対するユダヤ人あるいはユダヤ教の排他的特権の宗教的社会的「隔ての壁」(エペソ二14)が取り除かれることはない。ユダヤ人も異邦人も含めた「すべて」の人を神の救済の恵みに招き入れるキリストの福音が的確に鮮明にされている論文である。
この要点が、ロマ書において福音に生きる教会の姿と関連づけられていることを指摘するだけに留まらず、次のようにまとめられていることに深く共感する。「福音に生きる者は、新しい差別の原因を生み出すことなく、生活のいすれの領域も神の下にあることを知るべきである」。わたしは、信仰義認論の重要性を強調しすぎることはありあえないと思う一人であるが、ロマ書においてパウロが展開する福音理解の「すべて」の決定的な重要性を見落とした信仰義認論が見受けられることをいつも嘆いてきた。わたしたち人間のこの世界でのあり方、ユダヤ人の歴史、新約聖書における福音、そして今日の世界に生きる教会の生き方を真摯に実践的に考える宮村氏の関心が、この論文の主張として結実しているといえよう。
次に、三番目に収録されているヨハネ福音書についての論文を取り上げてみたい。
洗礼者ヨハネ、主イエスご自身、そして弟子たちの「証し」と「信仰」との循環(証し→信仰→証し)を成立させている決定的な事柄として「記憶」の役割に注目する。始めの出来事に意味があるという時、それは、始めの出来事は思い起こされるに価する、思い起こされねばならない出来事だということである。すなわち、思い起こすという営みは、「必然的に証しと記憶の参与を含む」のであり、こうして、過去が現在に意味をもつ出来事として体験される出来事になる。ここから、「イエスについての特別な記憶としての主の晩餐」を宮村氏は、過去のことを単に過去のこととして思い起こすだけでなく、信仰共同体における現在の体験であり、さらには未来の終末に向けられる事柄であることを指摘する。
注目すべき点は、主イエスの十字架での犠牲の唯一回性と主の晩餐の礼典、聖餐式の反復性との問題について、いままでの議論を適用し、ローマ・カトリックのミサとプロテスタントの聖餐について、新しい対話の可能性を丁寧に論じられていることである。宮村氏が師事した当時上智大学神学部の教授であったネメシェギ神父の論文を手掛かりとして、現代カトリック神学の所説に真摯に傾聴したうえで、教会のあり方を将来に向けて展望している姿勢は、「主義」の問題を超えて聖書の真理に立つことの意味深さを立証していると評価したい。
さて、宮村氏の聖書解釈についての根本的な見解が展開され実証されているのが、第八番目の「聖書解釈における聖書構造について」から始まる諸論文である。
宮村氏が「聖書構造」という用語で何を意味しているかを見ると、直接は文学的構造を意味している(「ヨナ書」、「マルコ」、「ヘブル人」の事例などを参照)ように理解できるが、本意は、全体と部分の両者の関係を決して無視してはならないという点にあると思われる。「全体」といっても、「部分」の軽視あるいは無視であってはならない。また、「部分」のみを重視し、多の部分との違いを矛盾としてかたづけてしまってはならず、いかに困難であっても、「全体」と「部分」がどのように繋がるのかという課題と常に取り組むことが、聖書解釈の営みであるということであろう。異なった質の論理が多少混在して議論が明瞭でない点もあるようだ。
宮村氏は全体と部分の原理を単に文学的構造のレベルで考えているのではないと先に述べたが、例えば、聖書の解釈対象となるテクストの主題(何を語っているかという事柄)は、聖書全体の主題から孤立させて理解されるべきではないという。すなわち、伝統的な意味での組織神学と密接に関わるという。あるいは、テクストの「いかに」、すなわち、聖書テクストの伝承、編集のプロセスを問うということは、歴史的展開のプロセスを重視する聖書神学あるいは豊かな教会史の蓄積からなる歴史神学に繋がるという。その広がりの中で聖書を解釈することの重要さを宮村氏は指摘している。
確かに、いわゆるダイナミックな聖書世界あるいはキリスト教世界から孤立した狭い保守的テクスト解釈も、テクストの詳細な部分に集中する傾向が強い現代の歴史批評的テクスト解釈にも、深刻な問題がある。聖書全体、ましてや、「誰のため」、「何のため」という聖書の根本的目的まで含めた全体との関係を方法論的に構築し実践する解釈の必要性は、宮村氏の指摘する通りである。
ただ、わたしの個人的感想を述べれば、解決はそれほど簡単でも自明のことでもない。確かに歴史的通時的視点からだけでなく、共時的構造的視点から聖書の思想を理解することの大切さは、学問世界で幾度も指摘されている。しかし、そもそも何を組織的に構築するのか。それは聖書の「教え」のことなのか。聖書を何かの「教え」と理解して良いのか。組織的に構築すべき聖書の事柄は何であると理解すべきか。もともと聖書全体に一貫した主題があるのか。あると前提すること自体の正当性があるのか。このような問いが批判的に追及され続けてきたのが、現代の学問研究の営みであったことは言うまでもないことである。すると、宮村氏の論文の主張は、現代ではもはや意味を失った時代錯誤的なものにすぎないのであろうか。
わたしとしては、宮村氏が古典的な保守的福音主義的な神学者の所説に自らの主張の証言を見いだして論証されていることには複雑な思いを抱かざるを得ない。すなわち、プロテスタント福音主義教会のキリスト者にとっては、論文の主張がある程度馴染みのある古典的権威によって裏付けされているという意義をもつであろう。元来、これらの論文は、福音主義教会を対象に執筆され、あるいは講演されたものであり、ここで、そのこと自体を問題視したいのではないことはお断りしておく。しかし、率直に言って、福音主義教会の伝統の外にあるキリスト者にとっては、敢えて注目すべき所説ではないということになろうと思う。
しかし、日本における福音主義の神学校である日本クリスチャン・カレッヂで学んだだけでなく、大学院であるゴードン神学校、ハーバード大学神学部、上智大学神学部で研鑽を積まれた宮村氏は、文字通り、プロテスタント、カトリック、保守主義、自由主義を横断して自らの聖書理解、キリスト教神学理解を深めてこられた。それと同時に、そしてその上で、プロテスタント福音主義教会の中で、教鞭を執り、教会を牧会されてきた。わたしは、宮村武夫先生はどこまでも福音主義教会の伝統的言葉の中で語り続けつつ、同時にすべての「主義」を超えた普遍的な、あるいは全世界的なキリストのからだなる教会、すなわち、エキュメニカルな教会のための聖書・神学理解を思索、展開することを意図されていると受け止めている。
先に触れたとおり、聖書の全体、あるいは聖書の一貫した主題などと宮村氏が述べることに大きな戸惑いを感じながら論文を読んでいたが、宮村氏の議論を辿っていき安心し深い共感を覚えた。宮村氏は、現代聖書学の指摘する諸課題を十分意識し、聖書の多様性を噛みしめながら、「こうした事情の中で、聖書全体の主題は何かと自問し続けなければならないのです」と記している。それでもなお、聖書に一貫する主題を一言で表現する困難を承知で答えるとすれば、宮村氏は、それは「神と人との契約関係」と考えたいと言う(140頁参照)。
わたしも、その通りであると考える。
聖書自体によって豊かで多様に証言される仕方で、聖書自体を超えて、聖書自体もその内に位置づける、大きなコンテキストとしての神と人との関係を基盤として共同体を形成していく営みがあるからである。聖書に証言されながら聖書の外にある、この神と人との応答関係を基盤とする精神世界こそが聖書に全体性を与え、聖書の一貫性を構成しているという事態の自覚が、聖書解釈の基盤であり、解釈の根本的目的と方法を定義すると、わたしは受け止めたい。宮村氏の提唱する通り、この立場に立つ時、聖書の解釈は深くなり大きく広がっていく。
他方で、この「契約関係」構造を、各論として特定のテクストに直接適用することの是非については、わたしは宮村氏ほど楽観的ではない。第一に「契約」概念と一言で言っても、神と人との主体的自由を軸とした人格的応答関係の思考形態を意味するのか、あるいはユダヤ教のように律法遵守主義の根拠となる固定化された神とユダヤ人との契約概念(いわゆる契約的律法遵守主義)を意味するのか、さらには、キリストを軸とした神と人との愛と赦しの関係を意味するのか、すぐさま聖書の証言の多層で多様な意味展開に直面する。また、契約構造を問題にすることなく、救済史のキリスト論的変容と展開という視点から解釈することも十分可能だからである。
「ガラテヤ人への手紙」を扱う一〇番目と一一番目の二本の論文は、どちらも以上に見た契約構造に注目することが聖書解釈にどのように寄与するかという、いわば実例としての解釈の試みである。教えられるところの多い論文である。ただ、解釈的基盤として契約構造がどれほど寄与しているかと問えば、「構造」とは言えないごく限られた基本的な、神から人への恵みの先行性、そして人から神への応答の重要さの主題がガラテヤ書でもしっかりと強調され語られているということであろう。むしろ、先の段落で触れた契約概念の多様性こそが、この論文で「律法の誤解、曲解」として解釈されていることの実体として考慮される必要があると思う。とはいうものの、ユダヤ人と異邦人の差別の撤廃の強調への注目、そして一一番目の論文における聖霊と新しい創造についての論述には大いに共感できる。
さて、最後に一二番目の福音主義聖書解釈についての論文に触れて、わたしの感想を終えたい。
この論文に、宮村氏の聖書観が最も鮮明に表現されているといえよう。「福音主義の聖書観」と言われているので、今のわたしには最も違和感の大きな主題であると同時に、宮村先生がどのように聖書観をまとめられるのかに深い興味をもって読んだ。一方で、常々の宮村先生の考え方や主張から予測したとおり、聖書観と聖書釈義の関係、無神論的立場、自由主義的立場、ローマ・カトリックの立場などとの冷静な比較を視野に入れたバランス感覚が優れた論文になっている。
特に聖書に関して言われる神の霊感と教会による聖書の解釈における聖霊の働きとを区別し、教会の聖書解釈は誤る可能性を含むということを出発点に、いかなる時代のいかなる地域の、いかなる教派の聖書解釈も絶対化することは許されないことが確認される。その上で、また、それ故に、すべての時代のすべての教会が、同じく聖書に聴き従うことによって、それぞれの聖書解釈の営みと、それに基づく説教を通じて、お互いに豊かな交わりをもつ道が開かれるとし、これこそ聖書的エキュメニズムだと言うのである。まったく同感である。
福音主義の誤りのない霊感された聖書という聖書観は、その深さ、広さが聖書解釈の営み、特に説教において明らかに示されるべき事柄であるとの指摘は、当を得た責任ある主張である。これは、福音主義に限らず、いかなる聖書観に立つ立場にも当てはまる指摘である。
ただ一点、やはりどんなに丁寧に論文を読んでも、なぜ聖書の特殊な価値が、無謬性の概念カテゴリーと結びつけられるかは、明らかにならなかった。さらに言えば、「誤りのない」とは何を意味するのかが問題であろう。わたしは、神観やそれに呼応する人間観が原理的に聖書観に先行すると考える。確かに認識の順序から言えば、聖書から神観も人間観も導き出される。こうして知らされた神観や人間観から、聖書観を形成することになる。この絶えざる循環によって神観、人間観、聖書観は深まり、広がるであろう。だからと言って、この認識の循環が、聖書の神学的位置を決定する必然性をもつわけではない。事柄の本質からも、歴史的な過程からも、神から人へ、人から神への応答関係を基盤とした第三者的共同体の価値世界の構築が聖書となっていった。そして神から与えられたこの共同体的価値世界に人々は自ら服従する道を選択したのであって、そこでは無謬という概念が機能する余地はないように思われる。神から与えられた第三者的共同体の価値に反する主張という意味での誤った教え、主張、行動は大いにあり得るであろう。しかし、それは福音主義の聖書観における無謬の概念とは無縁であるといえるのではないか。
全体を振り返りると、宮村論文には一つの特徴があることに気づいた。消極的な表現を使えば、論文の言語世界を共有しない人のための第三者的説明言語ともい うべきメタ言語がほとんど無い。積極的に言い換えると、宮村論文はすべて極めて主体的な論述からなっている。すなわち、著者自らが、表現された言葉と内容 とに深く主体的に関わっている。それは、読む人を変える語りである。また著者自身にとっても、自らが変えられる可能性に開かれた姿勢を貫いて書かれた論文 である。本書は、宮村武夫先生がそこに現存し、宮村先生と対話することを可能にする論文集であるといえよう。
(国際基督教大学教授、同大学宗務部長、同大学教会牧師)
二〇一〇年七月
写真の説明はありません。