第4回賀川シンポジウム趣意書

第4回賀川シンポジウム趣意書
     「地域とくらし − 今、女性の視点から考える」
稲垣久和

★敬愛するTCUの稲垣先生と、久しぶりで直接コンタクト協力でき、感謝。

1.地域にくらす人々とはどういう人たちか?
第3回目の「協同がつながって日本社会を変える」のテーマをさらに深めます 。
一昔前のイメージは家族単位でした。地域に生きる人々が「夫婦と子供二人」といったモデル提示は完全に時代遅れとなった感があります。最新の、国勢調査によると2010年を境に「夫婦と子供」世帯より「単身世帯」が多くなり全体の3割を超えました。2040年には4割になるといいます。「夫婦のみ」世帯も2割、「ひとり親と子」世帯も1割を超えています 。これが地域に生きる人々の現実です。高齢少子化がますます進む社会での「地域とくらし」の困りごとの実態が変化しています。助け合い、相互扶助なくして社会が持続可能になるとはとうてい考えられない時代に入りました。
SDGsすなわち持続可能な社会を目ざすある市民団体が出しているパンフレット。「社会」「環境」「経済」の三つの輪が重なりあったデザインが描かれています。これらの三つが調和されるのが「私たちの目ざす社会」だ、と。全く賛成です。しかし現実を考えてみましょう。私たちの生きている今の日本は「経済」(=お金)が最も巨大な円で他を飲み込んでいます。「経済」の内側に「社会」があり、さらに内側の隅っこに申しわけ程度に「環境」がある構造です。
お金も経済も重要な分野です。しかし、上のような現実社会に生きる人間像が問題です。一言でいえば「経済」人間(=homo economicus、ホモ・エコノミクス)ということです。あらゆる価値がこのような経済効率で決まってきます。20万年前に出現したホモ・サピエンスはいまやホモ・エコノミクスになったのです。労働力商品どころではなく、あらゆる価値が商品化されているという現実があります。
「自己利益の追求は悪ではなく善である」、これはアダム・スミスの経済学にすでに暗々裏に含まれていた人間観ではありましたが、100年経って顕在化し近代化と称して世界中にいきわたりました。そして賀川豊彦は、まさにこの人間観と格闘したのです 。
ホモ・エコノミクスで定義される人間とは「自己利益のみによって行動することは善であり、全体の成長に貢献する」というわけで、近代経済学から抽象された人間像です。やや極端に聞こえるかもしれませんが、現代社会全体がこのような人間観で動いているのです。政策もこのような観点からつくられています。しかしここに落とし穴があります。
「自己利益のみによって行動することは善である」という命題は、いわゆる経済や資本主義のレベルだけではなくあらゆる所にいきわたった普遍的な倫理観になっているということです 。特に日本で著しいのです。戦後民主主義のいきつくところがミーイズム(自分のみがよければそれでよい)という現実とはまさにそのことの大衆版です。

2.人間観の転換を
こんな社会に、賀川のいう「愛と協同」「友愛と連帯」を価値の最優先とする人間像を持ち出すことは大変、実際には極めて困難なことです。このような人間像をどう呼んだらよいのでしょうか。これを私は「倫理人間」(homo ethicus、ホモ・エテイクス)と呼びたいのです。「経済人間」(ホモ・エコノミクス)への対抗概念です。
「経済人間」という人間像は、実は西欧近代で200年くらいかかり徐々に形成されたもので容易に転換できません。この人間観を「倫理人間」に変えていくには相当の覚悟とエネルギーと戦いを要します。一世代はかかるでしょう。
人が働くとはどういうことでしょうか。これは人が生きる意味と直結しています。別に賃金労働のみを意味しているわけではありません。
ただ、われわれが生きている社会(資本主義社会)はお金がないと生きられません。お金を稼ぐ労働なしでは貧困に陥ります。賀川の社会活動の変遷をしばしば「救貧から防貧へ」という言葉で表現することがあります。若いころ、神戸のスラム街に飛び込んで経験したことは貧困を救うという志でありました(1909年)。広い意味で慈善事業といっていいかもしれません。
しかしやがてそのようなやり方では貧困はなくならず、むしろ貧困に陥った人たちが自ら立ち上がって貧困をなくす、貧困を防ぐための努力そしてそれを支援することの必要性、これを「防貧」と名付け、労働組合、消費者組合、農業者組合などを組織していく活動にシフトしました。ここで重要なのは自主、自立、自治という志をもった人間像です。これも相当の覚悟と戦いを要求します。
では賀川以後100年経って「貧困」は完全に除去されたのでしょうか。そうではありません。依然として「救貧」活動が必要なことは、最近の「生活困窮者自立支援法」(2015年)なる法律の施行を見ても明らかです。貧困はなくならないのです。いやむしろ構造化、固定化する方向です。なぜなのでしょうか?第二次大戦後の欧米諸国はいわゆる福祉国家の路線でした。「大きな政府」は重税を伴うということでこれを嫌い、80年代からサッチャーレーガンといった英米の指導者を先駆けとして新自由主義路線に入り世界はこれに巻き込まれています(ブレア政権の「第三の道」や日本の民主党政権がやや反発したものの元に戻されている)。特に、近年の「貧困」が「格差」という言葉とセットで使用されることが物語っているように、「自由」が規制緩和を意味し結局は一部の人々に富が集中し、その他大勢のふつうの市民とが分断されるという傾向があります。富の再分配が十分に機能していません。すべての人々が情報にアクセスできる時代、情報化社会の到来は、逆に、情報通信技術を駆使した資本主義、いわゆる金融資本主義の時代に入り、グローバルなレベルの「富の偏在」が顕著になったのです。だからと言って再び福祉国家論に戻るわけではありません(日本の福祉では措置制度から契約制度への移行がそれを顕著に物語っている)。お上(かみ)依存ではなく、まずは自主、自立、自治の気概を持つことです。市民が「下から」の民主主義を創ろうとする意欲です。したがって新自由主義への「対抗軸」として協同組合運動が位置づけられるのは理にかなっています 。
最近の人類学はネアンデルタール人が絶滅し、ホモ・サピエンスが生き残った理由を「協同作業にあった」としています 。ネアンデルタール人は自力で獲物を捕らえた、しかしホモ・サピエンスは協力して獲物を捕らえた。前者は競争社会で単独能力に頼る成果主義ホモ・エコノミクス型、後者は協働社会で各人の違いを活かして成果をあげるホモ・エテイクス型ということになるでしょう。われわれは絶滅危惧種の道を歩んでいくのか。それとも歴史に学んで今後の持続可能社会にうまく適応しようと努力するのか?これは人類史的な大きな戦いとなることを覚悟せねばなりません。

3.対抗概念としての「地域」と「女性」
グローバルな時代にローカル(地域)はどうなっているのでしょうか。この問題を精査する余裕はないのでが、グローバルの反動ないしは対抗としての「地域」はより重要性を増していることが多くの人々によって指摘されています。「地域とくらし」はより切実な課題となりつつあるのです。極端な「格差」のあり方が身の回りの弱者を直撃しています。にもかかわらず、個人情報保護法などで逆に人と人とが繋がりにくい事態が生じています。
今回の登壇者はすべて女性です。「地域とくらし」の主体が女性であるということではなく、今日の、特に日本で顕著なゆがんだ社会(ある意味での“男性優位社会”)を是正する突破口がここにある、と考えるからです。日本の長時間労働の習慣と関連して強調しておくべきは、女性の働き方改革です。ヨーロッパ先進国並みに女性の働き方、管理職登用にスムーズに転換している文化圏に比べれば、日本の“男性優位社会”の負の遺産が、長時間労働是正の困難さと歩調を合わせています。
残業、残業のライフスタイルの中で、どうやって「地域」の人々と顔と顔を合わせて対話できるというのでしょうか。例えば、職場で「長くいるほうが偉い」という意識、また「早く帰ると気まずい」という同調圧力、このカルチャーに大きな歴史文化的要因が潜んでいます 。
男女は法的に平等です。しかし身体的、精神的ないしは生理医学的に異なる、これは自明のことです。「違い」は重視したいものです。従って真の公正な社会を創ろうとすればこの「違い」の事実を考慮しなければなりません。分断化された現代の知的、学術的レベルでは解決できません。市民が主役になって、日常生活世界に引き寄せた意識と知の組み換え作業が必要です。ところが、日本人はこれが極めて不得手であることが、まさに現代のこの種の問題にうまく対処できない理由です。参加型民主主義の未発達ということです。
「経済人間」(ホモ・エコノミクス)の人間観を「倫理人間」(ホモ・エテイクス)に変えていくには相当のエネルギーと戦いを要します。第3セクターから公共圏への積極的な発信が期待されます。もう固まってしまった大人世代では遅すぎるでしょう(柔軟な大人は別ですが!)。まずは乳幼児期、そして児童期の教育から始めるしかありません。働くこと、それも協働することの喜びを教えていくことです。
男女役割分担を想定する必要は全くないにしても、ここでも女性の働きはとてつもなく大きいといえるでしょう。
皆様の活発な討論に期待します。