今も宮村節、クリスチャントゥデイで健在

今も宮村節、クリスチャントゥデイで健在

 神学機関で、神学教育に従事していた頃、しつこい私は、同じことを繰り返し語り続けていたため、学生方は、宮村節と呼んでいたことを、後で知るようにになりました。

 制度としての神学教育機関から離れて、どれだけになるでしょうか。
クリスチャントゥデイの働きを、確信と喜びをもって続けています。

 このような私の実情を、晩節を汚さないようにと、私から見ればとぼけた断定をした方がいたことは事実です。またいつの間にか、関係が疎遠になった教え子がいることも皆無でなく、否定できません。
 しかし聖書をメガネに万物を認識するクリスチャントゥデイの営みこそ、恩師方から継承した神学の営みであり、世のただ中での神学の実践であり、説教と自覚し、主にある自負。

 そう。まさにおっとどっこい。
今も宮村節、クリスチャントゥデイで健在!

いわく、
苦悩と喜びは両立する。
人事・会計予算か志・創意工夫か。
あれもこれもはできないが、何にもできないわけでない。
たじろぐ者があなどる。
キリスト教教会のだんまりすけべ。

まだまだ、
金・うそか志・リンク。
祈りと爆笑、主にある交わりのしるし。
死に至るまで、読みに読み、書きに書く。
欠如の恵み、乏しいものの財産。
良寛・寺なし坊主、宮村・教会なし牧師。

つづくぞ、続くぞ、
祈り続ければよい、主の導きひょい、ひょいと(ピリピ2:13)。
信頼されなくとも、信頼することはできる。
教派、宗教レッテルが問題でなくい、人間であれば誰でも本音が大切、本物かどうかが勝負。
神学校教師のために神学生がいるのでなく、神学生のために神学校教師がいるのだ。
いつでも、どこでも、だれにたいしても、聖なる公同の教会を信じ生きる者の一貫性。