日本クリスチャン・カレッジ1年上高瀬史郎兄召天の知らせを受けて

日本クリスチャン・カレッジ1年上高瀬史郎兄召天の知らせを受けて

 9月5日(日)グレース宣教会東京チャペル主日礼拝後、いつものように昼食を共にしながら主にある楽しい語らいのときに、携帯電話に着信。日本クリスチャン・カレッジで1年上の高瀬史郎兄が召されたとY兄から電話連絡でした。
 
 高瀬兄は、神学生寮の隣部屋で、ドストエフスキー全集を同時期読み進めた仲間(宮村武夫著作6『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ ドストエフスキーの神学的一考察、他』、111頁)。私たちの文通を知るご家族の方が沖縄や宇都宮など私の連絡先を探した後Y兄に相談、最後にM先生を通しようやく連絡がついた由。
 このところホーク学長のことをあれこれ考え続けていたところで,日本クリスチャン・カレッジの思い出が重なりました。

 高瀬兄とは、ドストエフスキーがらみで親しくなる前に、決定的に深い関係がありました。それは、1年生の前期(1958年4月から)柳生望先生担当の聖書緒論の授業のため私が初めて書いたレポート「啓示」をめぐる関係でした。
 すでに以前書いたように(宮村武夫5『神から人へ・人から神へ「聖書・神学」考』351−355頁)、あの授業において、柳生先生が、「宮村君、君の聖書観は、本来あるべき逐語霊感説でなく、機械霊感説だ」と率直に指摘してくださった事実を踏まえたものでした。
 レポートの書き方も十分知識を持たず、英語力も受験英語のそれでしたが、B.B.ウォーフィールドとJ.オアに教え導きを求めつつ、B5用紙に100ページ近いレポートを手書きで書き上げ提出したのです。
 
 柳生先生は、鬼才とも言うべき高瀬兄を深く信頼され助手の役割を委ねておられました。それで最初に私のレポートを熟読、採点してくれたのは高瀬兄でした。太平洋を往復、沖縄へも行き帰りしたレポートは、今も私の手元にあります。その表紙には、高瀬兄の手書きで97と大書されています。
 「100点やるわけにはいかないよな」と高瀬兄が言われた言葉を今もよく覚えています。神学を学ぶ者の慎みを教えられたと今に覚えます。

 高瀬兄は、ウシオ電機株式会社に入社し、その後社長の懐刀と活躍していると伝え聞きました。しかし私たちの文通は、日本クリスチャン・カレッジの学生時代そのままの雰囲気、彼の社会的活動は話題に出ませんでした。
 ただ9月5日,私がY兄との電話を終えた後、その場にいた3,4人に、
ウシオ電機で働いていた友人の召天の知らせの電話」と伝えると、その一人・東大大学院で物理の分野で修士論文を書いている樋口兄が、彼の友人の一人がウシオ電機奨学金を受け研究を進めていると応答。私は何か高瀬兄の働きの一端に触れた思いでうれしくなり、浜田山時代の友情しみじみでした。