「21世紀日本宣教」を熱く語る 後藤牧人氏、8年ぶりの新刊

「21世紀日本宣教」を熱く語る 後藤牧人氏、8年ぶりの新刊

1972年当時の日本キリスト神学校で私が非常勤講師と教え始めた時、卒業生でも、ウエストミンスター神学校で学んだのでもなく、長老教会にも属してない。ハーバードや上智の卒業生、しかもアッセンブリー・ペンテコステ教会の者を教えさして良いのかと危惧の声があったと、後に聞きました。
 この時ほどでなくとも、1969年4月、当時の東京クリスチャンカレッジで教え始める時も、ホーク学長の日本クリスチャン・カレッジ卒業生である私に対する愛と期待と相反する力が働いていたことは私にとっては明らかでした。
 
 留学から帰国の67年10月と69年4月までの微妙な時間のずれは、後に青梅キリスト教会での責任を整理し後ろの橋を断ち切って、キリスト教学園の働きに専念しようとした私たち夫婦に対する理事会の決定と実際の動きの齟齬(そご)に通ずるものでした。一瞬行くところがなくて、沖縄への道を私たち道を選び、その後は私たちの歩みは不動でした。

 こうした同盟でも長老教会でもない私の個人史と関係することもあってか、後藤牧人先生と私は個人的な接触はありませんでした。そればかりか後藤先生の言動については、否定的な評価が耳に入ってきたし、私の方からあえて先生にアプローチすることもありませんでした。それは、2014年4月私gクリスチャントゥデイの働きに参与するようになってからも基本的には同じでした。

 以上の背景の中で、今回後藤先生また先生が提示している課題に正面から私なりに対話することは、摂理的導きと受け止めています。決して小さな課題ではない、お祈り頂ければうれしいです。
★本紙のインタビューに答える後藤牧人氏
日本の教会が戦争責任や天皇制、神道に対して持っていた従来の捉え方を根本から見直し、独自の視点から日本宣教を論じる本紙の人気コラム「日本宣教論」を連載中の後藤牧人氏(町田ゴスペル・チャペル牧師)が、前作『日本宣教論』の続編となる8年ぶりの新刊を来年1月に出版する。タイトルはずばり「21世紀日本宣教」。出版に先駆けて、今まさに執筆中の新刊に込めた思いを熱く語ってもらった。
「一体何が日本宣教を阻害しているのか」。前作の執筆動機にもなったこの問いに、新刊はあらためて真正面から向き合う。後藤氏はインタビューの冒頭、「日本宣教を阻害しているものの1つは、『東京裁判』的な日本観」と第一の焦点を挙げた。
「アジアの教会との交わりはすべて『謝罪の旅』となり、隣国の教会からの訪問者が講壇に立つと、『私たちは日本人を赦(ゆる)します』との赦罪宣言から講演を始め、新来者がびっくりすることがあります」と、日本の教会が従来取ってきた姿勢について疑問を投げ掛ける。
東京裁判については、恣意性、不徹底性、また日本の言動のみを裁くという偽善性など、学術的に多大な問題を含んでいるのは今や常識。それなのに、日本のキリスト教会では、これに多大な権威が与えられています」
マッカーサー司令部は、東京裁判の線に沿ってWGIP(戦争責任広知計画)を実施。後藤氏によると、当時、歌舞伎は禁止され、ラジオ体操も軍事訓練につながるという理由で禁止され、広島では紙芝居屋が逮捕、有罪判決を受けて服役するという事件まで起こった。
「これは、日本的なものを根こそぎにしようとする政策で、公式には1951年のサンフランシスコ講和条約をもって占領が終結するまで続きました。この日本的なものに対する嫌悪が基礎となって、キリスト教会の宣教の根底が形成されています」と、今年85歳になる戦前生まれの後藤氏は語る。
「だから、日本の有罪性を受け入れ、これに徹することが重要とされます。こうして、日本人であること自体が恥ずべきことだという観念に徹底すること、それが牧会の目標になるのです。これは正常な心理ではありません。さらに、これは漠然とではありますが、米国社会をもって理想とする態度が日本の教会にあります。そのため、米国のキリスト教世界が持っている基準が何でも正しいことになってしまう」と危惧する。
第二の焦点として後藤氏が挙げたのは、「日本のキリスト教会が社会主義に対して持つ親和性」だ。「戦前のプロテスタント・クリスチャンは、すべてが社会主義に対して親和性を持っていました。戦後においてもクリスチャンのほとんどが社会党支持でした。現在でも左翼的です」と語る。
社会主義は原則的に、人間理性が包括的で組織的な世界観を持つことができると考え、人間社会のすべてをその真理に従って再構築できると考えます。その意味において、方法論的に両者は似ており、ここに現在の日本プロテスタント・クリスチャンの左翼的な思考に対する親近性の理由があります」と指摘する。
後藤氏が注目する第三の焦点は、「組織神学の見直し」だ。「組織神学は、これまで包括的で普遍的な真理を提供するとされてきました。しかし、これはあくまで西欧の産物であり、西欧発です。これを世界のあらゆる場所で真理として、アジア、アフリカ世界に押し付けることはできません。アフリカばかりでない、足元のカリフォルニア州では、10組の夫婦のうち9組が離婚するといわれています。そのような所で古典的な性倫理を振りかざしては、そもそも牧会が成り立ちません」
旧約聖書をありのままに読めば、そこには多種の文化と慣行があり、そのままが神によって受け入れられていることが分かります。プロテスタント教会は、旧約聖書をどう扱うかについて苦慮してきました。旧約を否定しないまでも、一段下に見る態度があります。また、旧約の記事はすべてイエス・キリストの預言であるか、または贖(あがな)いの予表であるとし、旧約聖書の記事は新約時代の教会に対して模範的な価値は持たないとする傾向があります」
後藤氏は、「日本の教会は聖書に帰るべき」と主張する。「16世紀の宗教改革は『聖書に帰る』『ただ聖書のみ』を掲げましたが、その実、『聖書から抽出された神学』に帰ったのであって、聖書のテキストに帰ったのではありませんでした。今、日本の神学校でヘブライ語を必修科目としている学校は2つしかありません。あとは、西欧の文化によって料理された『聖書と関連した宗教』を英語で、または英語神学書の日本語訳で学んでいるにすぎないのです」
「西欧の社会や価値観と巧妙にもつれ合って形成されている現在の『プロテスタント教』を学ぶには、英語だけでいい。しかし、少なくとも神学校の教授には、ヘブライ語の素養が必要です。非常勤講師にまでは要求できなくとも、フルタイムの教授は、教える科目が何であれ、ヘブライ語の聖書本文を自分で読める人でないといけません。旧約学の教授ばかりでなく、心理学や福祉などを教えている教授であっても同じです。でないと、その神学校が観念的になり、聖書からも現実からも遊離した理論をもてあそぶだけの場所になってしまうからです」
来年1月出版予定の新刊『21世紀日本宣教』は、出版元のイーグレープで予約を受け付けている。前作『日本宣教論』も、アマゾンなどで好評発売中だ。
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