ニューイングランドの母校に見るからし種のようなものの一つ

ニューイングランドの母校に見るからし種のようなものの一つ


 A.G.ゴードン(1836〜1895 )の名前は、彼の友人D.L.ムーディーに比較して、なじみの薄い名前です。聖歌六百一番の作曲者であると言われてもです。
 内村鑑三。私たちにとって、直接、間接最も身近な先達です。A.G.ゴードンの再臨、聖霊ご自身についての理解が、内村に少なからず影響を与えていると私は考えています。
 
 ビリー・グラハム。私たちの多くがが最も親しみを覚える名前です。ゴードン牧師を中心に一八八九年に設立した、ボストン宣教師訓練学校。その後身ゴードン・コンウエェル神学校の理事長に、グラハム先生は選ばれました。ボストン郊外に位置するゴードン・コンウェル神学校では、二つの前身コンウェル神学校とゴードン神学院の設立百年を記念し、一連のシンポジウムを開催して来ました。その締めくくりとして、神学教育の課題を中心にするシンポジウムとグラハム先生の理事長就任記念講演がありました。そこに参加し、考えさせられた幾つかのことを、その後の時代の移り変わり、その期間私なりに経験してきたことを踏まえて改めて報告します。

[二]シンポジウム・講演を通して
 シンポジウムでは、アメリカの神学教育における福音派の貢献、二一世紀の神学教育、神学教育における信徒の位置などの課題を巡り講演、論議がなされました。その中で二つの点が特に印象に残りました。
(1)教会史における神学教育の位置付け
 着実に積み重ねられているアメリカ教会史の研究。それとの相互関係にあるアメリカの教会史に対する深い自覚が際立ちました。例えば、神学教育・神学校のイメージとして、マタイ五章14節を強調してきた事実を実証的に示し、神学校をキリスト教界の光りばかりでなく、社会全体の光りとして二重の意味で自覚的な営みがなされてきた事実に意を注いでいました。

(2)福音派福音派神学教育の成熟
 シンポジウムは終始歴史的な意識と共に、教会意識、つまり聖なる公同の教会を信ずとの使徒信條の告白に立つ精神に満たされていたと言えます。それは、講師がいわゆる福音派と呼ばれる人々以外の方々が主であった事実にも現れ、他の神学的な立場との対話、対決との中で会が進められていたと判断します。
 ですから、福音派神学教育の評価も、他の神学的な立場に立つ方の講演を通しなされていました。私の個人的な背景・文脈で言えば、東京キリスト教学園の千葉移転や四年制大学への歩みを東京神学大学同志社の教授方が日本の教会史に立ち神学的に吟味検討し、対話批判がなされている状況と言えましょうか。 
 神学的な立場を堅く守りつつ全教会への責任を受け止めようとする姿勢は、ゴードン・コンウェル神学校の学生や教授の構成と言う現象面にも現れていると見ました。あアノシンポジュウム当時学長がアッセンプリー教会の方であるとか、聖公会の学生が十名以上も福音派の神学教育を求めて学んでいるなどの教派的広がりは、私がまなんでいた1960年代のゴードン神学院ではなかったことです。

[二]ゴードン・コンウェル神学校の1歩みと将来からの示唆
 信徒の役割を重視し海外宣教の使命に答えようと設立した宣教師訓練学校。その百年数十年後の姿を見ます時、出発点から現在に至りさらに将来に継承される一貫した福音宣教の使命に答えようとする姿勢に感動します。しかも同じ精神に立ちつつ進展して行く有機的な在り方です。その営みの中で歴史の重さを感じます。
 
 また1969年、コンウェル神学校とゴードン神学院の合同の経緯(いきさつ)を、あのダイナミックの語り方で話すグラハム先生の講演も興味深いものでした。合同がオッキンゲー牧師、伝道者グラハム、キリスト者実業家ピゥーの協力と指導により進められた事実などをを含めて。
 ゴードン・コンウェルは、神学校の外に、ボストンの町中にある黒人の方々やスペイン語を話す人々の教会指導者の教育を使命とする都市伝道教育センター、地域に根差す信徒教育に仕えるオッキンゲー学院により構成され、海外宣教とともに多様な宣教の分野に仕えようとする人々、例えばニュー・イングランドのリベラルな教会と言われた教会に、福音に堅く立とうとする牧師をおくることに焦点を置く教育の場として用いられています。
 
 A.G.ゴードンの再臨理解と聖霊ご自身に対する信仰と彼の教育の分野における足跡(神学校への発展と共に、ゴードン大学の展開)と真の意味で教育者と言える内村鑑三の再臨理解と聖霊ご自身に対する信仰の関係、この課題をも続けて考えるため強い刺激を受ける機会でした。