今日も生きる、「宮村君、君には元手がかかっているんだ」の余話など

今日も生きる、「宮村君、君には元手がかかっているんだ」の余話など、

60数年前万代恒雄先生と出会った小岩で、今生活しています。
 この小岩という一つの「場所・場」のつながりで、様々な時の隔たりで聞いたり話したりした言葉が記憶の中で数珠つながりになって、今日も生きる一つの物語となってくるのです、
 記憶のため以下の記録も生かされて、感謝。

[1] 序
 2015年2月、万代恒雄先生の献身を記念する機会に、二つの聖書箇所を覚えます。
一つはヘブル13章7節と8節の結びです。
ヘブル13章8節、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」、良く知られた大切な聖句です。
 ところが、その直前ヘブル13章7節、「 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」は、どうでしょうか。案外注意されてないのが実情です。
13章8節の告白が真実なものとなるためには、なくてならない勧めが軽視、さらには無視されている場合が少なくない。
もう一つの聖書箇所は、Ⅰヨハネ4章20節、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」。目に見える人と目に見えない神への態度は、切り離せない、不可分な事実を指摘しています。
そうです。私にとって、万代先生の言葉をどのように受け止めるかの課題と聖書の言葉への聴従とは固く結ばれている事実の確認。これこそ、今年万代恒雄先生の献身を記念する中心です

[2]あのことば
(1)「宮村君、君には元手がかかっているんだ」
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」( コリント6章20節)。
 1955年3月22日午後7時過ぎ、高校生の私は、東京都江戸川区の小岩公会堂へ向かっていました。中学生の弟が公会堂に行っているらしい、迎えに行くようにと母から頼まれたからです。
 公会堂にはかなりの人々が集い、集会はすでに始まっており、弟を探し帰れる状況ではなく、成り行きで話しを聞いたのです。長年中国で宣教師として働かれた方が語る福音の宣教で、万代恒雄先生の通訳を通し聴き入りました。集会は、宣教師宅で礼拝を開始していた、日本アッセンブリー教団小岩基督教会の伝道集会だったのです。 
 
その夜、キリストに従う一歩を私は踏み出しました。信仰の歩みを始めた私に、万代先生は、「宮村君、君には元手がかかっているんだ。主のためにしっかり働いてもらわなくてはな」と、率直なことばで励ましてくださいました。
「元手」とは、誕生したばかりの群れが、三日間公会堂を借りるため支払った費用のことです。「そんなに高かったのか」との思いで聞いたことを記憶しています。
 それから四十数年。一地域教会の一員として生き、牧師として仕える私の小さな歩みを万代先生は喜んでくださり、最後にお会いしたときには、沖縄の離島の一つ伊江島でのキャンプと将来の夢を真実溢れることばで応援してくださいました。
先生の前夜式で、ヘブル人への手紙13章7節を読みながら,あの夜のことや先生が率直なことばで指し示した、あのパウロのことばをかみしめたのでした。

(2)「宮村君、君には元手がかかっているんだ」の余話
1986年4月に沖縄へ移って後、それも万代恒雄先生が召天なさって何年かしてから、万代夫人・君恵先生が、万代先生の生前の説教のCDを送って下さいました。
 そのCDを聞きながら、「宮村君、君には元手がかかっているんだ」の真意を深く知ることが出来ました。
 私が偶然のように参加した、小岩公会堂での特別集会の会場費の出所について万代先生は、CDの中でお話しなさっているのです。高校生であった私が考えようともしなかった事実です。
 当時の小岩教会は、公会堂の使用料を払えるような経済状態ではなかった中で、私の知らないある女性が、結婚資金として蓄えてきたものを使用料として用いるよう万代先生に申し出て来られたそうです。
 万代先生が、「そんな大事なお金を受け取るわけにはいかない」と断っても、「これは自分一人で、コツコツ蓄えて来たものだから」と、伝道のため用いるよう強く主張なさり、他の団体があの3日間使用する予約がキャンセルされたこととも重なって、伝道集会が開催されたのでした。
 まさに、「宮村君、君には元手がかかっているんだ」なのです。
確かに、私にはしっかり働く責任があります。今、インターネット新聞・クリスチャントゥデイの編集長として全力で働く恵みを味わうことが出来るのは、名前も知らないあの方が元手を払ってくださったからなのです、感謝。

[3]このことば
「止めを刺す」
今、日々私の意識している、万代恒雄語録の一つ、それは、「止めを刺す」なのです。
 「宮村君、君は人がよくて甘いから止めを刺すときに、手が緩むんだ」と個人伝道の際、
信仰の決断への導きの時、一歩引きがちの私の実情を万代先生は見逃さないのです。

 「戦国時代の武将が戦場に立てば、何が大切と言って、『止めを刺す』ことこそ、肝心要。
『止めを刺す』ことを、一瞬躊躇(ちゅうちょ)すれば、反対にと止めを刺されるんだからな、宮村君」。万代先生の指摘は的確でした。
1957年1月から8月まで、3月末の卒業式に東京へ戻った以外、万代先生宅で寝食を共にしながら、松山開拓伝道のお手伝いをさせて頂いている日々の中での導きでした。

 その後の歩みの節々で、明確な信仰の決断が第一。そこからその実現のための献身的実践。これによりもっともらしい一切の言い訳からの解き放ちを経験して来ました。
しかし「止めを刺す」万代先生の迫力には遠く及びません。
「宮村君、まだまだ甘いな。そんなことじゃ、止めをさされるぞ。止めを刺せ!止めを刺せ!」、万代先生の声が聞こえて来そうです。


[4]集中と展開
「あの方の生き方、死に方」
 1957年1月から8月まで、万代恒雄先生の松山開拓伝道のお手伝いをしていた最初期のことです。瀬戸内海の島々に伝道するため、万代先生をはじめ数名で古い漁船を高知県須崎から松山へ曳航することになりました。
 その途中小さな港に寄港した際、銭湯に行ったところ、お風呂が終る遅い時間から聖書集会があると伝える、一枚のポスターが張り出されていました。
 
 集会に出席して、驚きました。
集会で聖書のお話をして下さったのは、東京下町では三助と呼ばれていた、お風呂を沸かしを中心に様々仕事をする方でした。以前は由緒のある神社の神主さんで、聖書を自分で読み天地の創造者を信ずる信仰に導かれ、神社を離れて銭湯の仕事をしながら集会を続けているとのこと。
 そして主日には、小舟に乗って、八幡浜のアライアンスの教会に出席するとのお話しでした。その後の連絡などする配慮のなかった10代の私でしたが、ただ一度の出会い、あの晩のことを鮮明に記憶しています。
 聖書の人を変える力、キリストに従い名誉ある神主の地位を離れ、人々の垢を落とす仕事に従事なさる方の生き方を思い起こし、またあの方の私が知ることの出来なった死に方を想像するのです。
 そうです。万代恒雄先生の献身の聖書箇所は、言わずと知れた、黙示録2章10節、
「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」。
キリストへの忠実の一点に集中。そこから全生活と全生涯に波紋のように広がる、万代先生の言葉の基盤である生き方、死に方。名前も知らない、小さな港で一度だけお会いした、あの方の生き方、死に方。