医療従事者の方々に支えられ、医療従事者の方々と共に

医療従事者の方々に支えられ、医療従事者の方々と共に

★沖縄時代そして今関東で経験している恵み

 沖縄時代の医療従事者の方々との交わりというとき,やはり『からし種の会』のことに言及しないわけにはいきません.

(1)からし種の会の出発
 1987,88年頃から,群れの中で医療従事者の数が少しづつ目立つようになりました. 
 こうした背景の中で,1989年3月18日,医療の仕事に従事している人々を中心にした集会を持つため準備会を計画,翌月4月より,月1回土曜日の午後に定例会を開くようになりました.
 会のプログラムは,
①讃美,聖書,祈り

②学びのとき,聖書そのもの.また聖書と医療の関係を中心に関連   の著書,記事などをテキストに.

⓷出席者各自が直面している課題,考え,祈りなどを中心に報告と   話し合いのとき.
 その後会の名称を,『からし種の会』(マタイ13章31,32節)に.
 聖書が病,死についてどのように教えているか学ぶ際, 
  アダムとイブの堕落以前,神の創造における,本来の人間,
  堕落後の罪の影響の中にある,現実の人間
  主イエスにある救いのもとにある,希望の人間
 その区別と関係に特に注意して聖書を学び,その学びを通し,職場で直面する課題を読む.また直面している課題を抱えながら聖書を読む.この両面を注意しました.

(2)自然休会と再開
 からし種の会は,その後集会に新鮮を失い,次第に出席者が少なくなり,1992年11月43回をもって,自然休会となりました.
 しかし,1994年11月30日天願悦子姉,1995年7月30日又吉幸子姉,同9月1日伊芸満君の召天.召天にいたるまでの,それぞれの病の日々に接する中で,一人の牧師・牧会者として,私自身が『からし種の会』の再開を強く願うようになりました.そして1995年9月16日に再開第1回の集いを持ちました.この再開は,それ以前の『からし種の会』と違った,幾つかの特徴がありました.
  一つは,伊芸満君の召天を通して,イザヤ書53章の重みを骨身に教えられ,特に「悲しみの人で病を知っていた」(3節)お方・主イエスを信じ仰ぎ続けることへ招きの深い自覚.ここにこそ,医療,つまり人間の生き・死にのすべてを見る,ただの人間としての道への踏み出し.
  首里福音教会の枠を越えて.再開の核となったのは,宜野湾聖書教会の広瀬牧師(理学療法士としての経験者),与那原先生(当時オリブ山病院院長,緩和病棟に専念),森根神学生(沖縄聖書神学校,元看護婦)などで,それに琉大医学部の学生であった大塚兄,前山兄,また東京基督教大学入学を願っていた大城千晶姉でした.
 特に広瀬先生は,会の書記としての役割を果たし,会の歩みを支えて下さいました.また与那原先生は多忙な中で,聖書に聞き,主イエスに祈る,純朴とさえ言いたいあり方で,会の基調そのものとなられていました.ですから,広瀬先生がご結婚のため本土に戻られ,与那原先生が他の病院へ移られ,大塚兄,前山兄が卒業,大城姉がTCC入学と重なる中で,『からし種の会』は,1998年3月14日の(土)再開29回,東江直江姉前夜式(98年2月24日午後9時),『ここに人あり,その名は東江直江』(マルコ8章22ー26節)の報告を最後に,再び自然休会に陥ったのです.

(3)その中でも
 ピレモンとオネシモは主人と奴隷としてばかりでなく,愛する兄弟の関係.その事実を学びつつ,私自身が「愛する医者」(コロサイ3章14節)と,躁鬱の主治医と患者と医師の関係と同時に,愛する兄弟同士として聖餐式にあずかる恵みを経験し続けたのです.断続の恵みです。
 それに加え2009年12月脳梗塞発症以降、医療従事者の方々との関係は、より全生活的広がりを持つようになり、関東に戻った以来今日に至っています。確かに数は限られていますが、現在の医療従事者の方々と交流において、沖縄での経験が生かされています、断続的恵み、感謝。