対話の神学の実践者、宮村武夫先生

対話の神学の実践者、宮村武夫先生

★現在東京女子大で活躍しておられる、敬愛する遠藤勝信先生が、数年前に著作集の巻末エッセイとして書いてくださったもの。
 「仕事は礼拝」、つまり、礼拝と仕事の関係を含め、私の意図・神学を最もよく理解してくださっている方、感謝。

遠藤勝信

勘違いの出会いをも大切にして

 それは、ある勘違い?から始まった。私がボストンに留学していたときのことである。宮村先生からお電話を頂いた。十数年も前のことで、会話の内容は忘れてしまったが、それがはじめての会話であることを意識させない程、温かな対話であった感覚だけは残っている。後で知らされたことだが、そのとき先生は私を、TCUの卒業生のどなたかと勘違いしておられたそうである。斯くして、ある勘違いから始まった交わりが、このように、いま豊かに展開している不思議を思う。後述するように、そこに宮村先生によって導かれた「対話の神学」の実践がある。


はじめから示されていた対話の主題

 声と声でなく、顔と顔との最初の出会いは、帰国後、私が聖書神学舎の舎監をしていたときのことだった。東京にいらっしゃるご用事があり、ついでに聖書神学舎をご訪問くださったのである。羽村駅にお迎えに上がったとき、とても明るい柄のかりゆしを着て、じっと立っておられたお姿が今でも思い出される。お顔には、何か重々しい使命感のようなものが滲み出ていた。突然のご訪問であったため、神学校では校長は不在で、私と赤坂先生の二人で応接室にお迎えした。限られた時の枠を懸命に押し広げ、出来た空間に何かを捩じ込むように、次々と話題を展開し、沢山のことをお話しになられた。教会に、神学校に委ねられた重い使命について。また、それに如何に応えるべきかという実践について。きっと、それは那覇から羽田まで、羽田から羽村までの時間の中で、先生が私たちに語らねばならぬと整理された内容のすべてであったのだろう。聖書神学舎には、いのちの通った神学の実践、地に根ざした説教の伝統がないと、よっぽど案じておられたのだろう。私たち若い教師二人を聴衆にして、子供にも届くための「童話説教」なるものを実演してくださった。
 思い返せば、そのとき語られたことばの一つ一つを、私は、そこから展開する対話の神学において、先生から深く学ばせて頂くことになったのである。


対話としての読書

 それから数年経って、先生を神学舎の応接室にではなく、舎監寮の我が家にお迎えした。テーブルに着くや否や、カバンに手を入れ、一冊の本を取り出された。表紙から、それが拙著『愛を終りまでー最後の晩餐で語られた主イエスのメッセージ』(いのちのことば社)であることがすぐに分かった。かなり読み込まれて、少々大袈裟な言い方ではあるが、印象としては、「原形を留めないほど」に膨れ上がっていて驚いた。本を手渡され開くと、全ページ、全行に黒い鉛筆で線が引かれ、不思議な記号が書き込まれ、線と線とが至るところで結び合わされていた。行間にはぎっしりとコメントも書き込まれていた。これまで五冊程の単行本を出版する機会を得たが、自著をそこまで徹底して読み込んで頂いた経験はない。この先生は、本気で私のような者と向き合おうとしておられると、感じ取った。それは、先生との真剣な対話への招きであった。


喜びと痛みの共有を通して

 その頃から、沖縄の宮村先生から、宣教報告『恵みから恵みへ』をお送り頂くようになった。互いに近況を報告し合う電子メールのお交わりも始まった。あるとき、ユルゲン・モルトマンが沖縄の諸教会の招きで来日され、先生が講演会の通訳を分担されるということがあった。モルトマンと私の恩師リチャード・ボウカムは旧友の仲。私自身もモルトマンの講義に出たことがあり、その繋がりが、通訳者宮村先生とモルトマンとの意識的距離を僅かばかりであるにせよ、近づけることになったと伺っている。
 当時、宮村先生は沖縄で、私は東京で、人生の大きな痛みの時をそれぞれに過ごしていた。そんなとき、誰よりも近くに寄り添い、静かに話しを聴き、よく分かり、みことばと祈りをもって励ましてくださったのは宮村先生である。電話口で、よく祈ってもくださった。私が直面している闘いのため、奉仕のため。兄の病のときに、そして妻の病のときに。喜びと痛みの経験が、対話をより深いものへと導いた。


「対話の神学」の実践

 知らぬうちに、自分の考え、言葉となっているもので、出所が宮村先生のうちにあるものが幾つか在る。あるとき、テレビの番組で久米小百合氏と対談したときのことである。「はじめに、神が」(創世記一章)で始まった信仰生活が、いつしか「しかし、現実は」に変わる愚かさについて力説する自分がいた。信仰者に最後まで求められることは、「しかし、神が」と告白し続けることだと。収録が終わり、実際に放送を観て、それは宮村先生が語っておられたことであったと振り返った。
 また、礼拝論について共観し、自著によく引用させて頂く一文がある。

主日礼拝に一緒に集まり、同じ讃美歌を賛美し、同じ聖書のことばを味わい、主なる神をともに礼拝する、この主日礼拝を、「目に見える」驚くべき神の恵みと見抜き、恵みを無駄にしないようと応答するのです。同時に各自の持ち場・立場に散り、そこで聖書と聖霊ご自身の導きと助けにより、各自の現場に注がれている神の恵みを、世俗のただ中で見抜き、ひとり静かに心の底から、主なる神への賛美をささげるのです。そしてまた一週間のあらゆる課題や矛盾を一身に担って主日礼拝に戻るのです。…主日礼拝は、各自の生活・生涯から決して切り離せません。主日礼拝の場から、各自の持ち場・立場へ、愛の手紙・聖書をともに読み、愛の業・説教に全身で参与し続ける者として派遣されるのです。礼拝と生活の二本立てではなく、礼拝しつつの生活、生活の中の礼拝、礼拝の生活です。主の日と六日間の美しい調和の中で営み、繰り広げられる礼拝の生活、礼拝の生涯です。」(『愛の業としての説教』四二〜四三頁)

「礼拝と生活の二本立て」ではなく、「礼拝の生活」です、と。既述の、「しかし、現実は」ではなく、「しかし、神は」、というように、「キャッチコピー」は宮村先生の得意技の一つである。本質を見事に凝縮し、しっかりと記憶に留まる不思議な「神学のことば」の造形美。それは説教にも、先生との個人的な対話の中にも次々と顕れる。それは先生の手から私の手に。また私の手からさらに他の方に。「神学のことば」のキャッチボール。

 最後に、先生との対話の恵みのお証しを一つ加えたい。拙著『この人を見よーヨハネによる受難物語』(いのちのことば社)をお贈りした際に、貴重なレスポンスを頂いた。残念ながら頂戴した文面が見つけられず記憶も不確かなため、こちらから返信したものを記載しておくことにする。

「拙著についての、先生からの貴重なご提言、確かに受け取りました。『説教者は事実の証言者としての自覚を持って』(のことば)いよいよ励まされました。米国での指導では確かに『はっきりと』と訓練され、英国では、むしろ婉曲表現を期待されました。『たとえそれが事実であると確信しても、明言を避けることで、僅かな空間を残し、対話の余地を生み出し、同じ地平から、真理の方向性を「共」に見つめる謙遜さ』です。それは、『事実』と『自らの感想』を区別し、後者を披瀝しているというのでもなければ、自信なげに、『明言を避けたがっている』というのとも違うのです。しかし、このたび、宮村先生のご提言を読みながら、頂いた恵みの促しがありました。説教に、『聖書の事実の宣言という、さらなる厳しさ』を、という励ましです。『思う』と、文を終結するか、それとも、『です』と言い切るかという、まさに実存的な『戦い』、そういった真剣勝負に挑むべきであると。そう教えられつつ、これまでの宮村先生との対話を思い起こしました。これまで、私が拝聴してきた、宮村先生のことばは、いつも、はっきりとした言い切りの形で提示され、それはあたかも口伝で伝わった簡潔な教理のようであったと。まだまだ長い神学の道のりです。ご指導、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。先生のご健康の上に、また、主が導いておられるこれからの事柄の上に、恵みと平安をお祈りさせて頂きます。在主。」

 以後、説教を語る際に、「思う」を極力言わないよう心掛けるようになった。神学校の説教演習でも、学生たちには同様のことを求め、説教者の重い責任についての自覚を共有している。
 このように、いつの間にか始められ、今でも続いている宮村先生との対話の交わりがある。人の存在を喜び、たとえそれが小さな切掛け(勘違い?)であろうと、そこから始まる交わりに期待し、全身で誠実に向き合い、対話を通して神の国の広がりを展望する。そのように、点と点が結ばれて線となり、線と線が面を作り、面が合わされて立体へと展開してゆく「対話の神学」のダイナミズムが、宮村武夫先生の福音宣教のわざに観られる。