宮村武夫著作4『福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、 ガラテヤ人への手紙、ペテロの手紙第一』 巻頭言 日本キリスト教会引退教師 池永倫明  個人的な想起

宮村武夫著作4『福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、
ガラテヤ人への手紙、ペテロの手紙第一』

巻頭言
日本キリスト教会引退教師 池永倫明
 個人的な想起
 はじめに、畏友宮村武夫牧師を筆者が尊敬するのは、ひとえに彼が優れた福音説教者、牧会者であるという一点であって、そのほかのことではないと、ことわっておきたい。
 彼とはじめに会ったのは、御家族と友に沖縄の福音派の教会に赴任された数日後で、首里福音教会という名の、開拓伝道初期の無牧の教会の強力な招聘運動によって来沖された、と後で知った。後日宮村武夫牧師は、「沖縄赴任後一番最初に訪ねて来られた牧師は、池永牧師だった」と言われ、この訪問を喜んでおられた。その赴任直後の宮村牧師一家の住居は、沖縄の駐留米軍からの払い下げのカマボコ型兵舎の一棟であった。当時おそらく宮村一家の御家族は沖縄での開拓伝道の厳しさを覚悟し、また実感されたのではなかったかと思う。
 爾後、宮村牧師との交わりは深められ、カルヴァンキリスト教綱要』(邦訳)の超教派の共同研究会にも共々参加した。この会は各教師が担当を決めて、章毎に解説し、論議するもので、すこぶる楽しかったのを筆者は回想する『綱要』の全体を一応読み終わったと記憶している。
 宮村武夫牧師は、教会・キリスト者とは「主イエス・キリストを首かしらとして生きる群れである」と、基本的に考えておられ、そこに立って生きているなら、どんな教派のキリスト者とも、主を首
かしらとする者同志の交わりを実践し、大変エキュメニカルな姿勢を持ち、胸襟を開いて語り合い、信仰の交わりをする牧師であった。また沖縄での諸平和集会の参加者の中に、御家族と共に、いつも長身の彼の顔があった。彼から教会の諸集会のプログラム・週報・月報などもよく手渡され、たとえば青少年中心の離島での夏期研修会などが綿密な企画のもとでなされ、その実践力に筆者も教えられ、影響を受けた。
 また宮村武夫牧師は、沖縄の超教派の「沖縄聖書神学校」の新約聖書学部門の講師(この神学校では「教授」と呼んだ)となられた。当時この神学校専任教授は、筆者の記憶では、福音派に属しておられた運天康正牧師であり、運天牧師は、カルヴァンの『キリスト教綱要』をこの神学校の教義学の教材とすると、入学式で宣言しておられた。沖縄のいくつかの教派の牧師たちも講師に依頼され、いわゆる手弁当で、将来沖縄で福音宣教に仕える人材、また教会学校教師などで教会で仕える人材を育てるために、首里の「祈祷院」を借りて神学教育をしたのであった。当時他県の整った神学校にゆけない現地沖縄の若者たちを育てるためにこの神学校はよい働きを果たしたのではないかと筆者は考えている。
 宮村武夫牧師と、時折会って雑談を交わしている中で、彼が社会福祉の問題に深くコミットしておられる印象を受けたし、また上智大学でのゼミで提出レポートが「ドストェフスキー論」であったと言われたのを記憶しているし、彼の説教集の中にドストェフスキーの作品にふれたものもあり、何かのエッセイ的な文章の中にドストェフスキーの『悪霊』にふれたものものがあったのを今思い起こす。
彼との交わりの中で、宗教改革史、教理史、世界の教会史、日本のキリシタン史、日本の教会史、沖縄史、沖縄の民間宗教、日本の諸宗教史などについても、よく学んでおられる印象を受けた。それも彼が福音説教者として、宣教の対象である日本人の文化的背景を把握したいという願いからの学びであると思われる。
 筆者は宮村武夫牧師の肉声による説教を聴きたく、かねてより思っていたが、その望みがかなったのは、筆者が当時牧会していた蒲田御園教会の特伝に講師として沖縄から迎えたときで、教会員たちは、その説教と講演から大きな信仰の益を受けることがゆるされ、今も感謝している。その後、宮村牧師は沖縄で病に倒れられたという一報を受けた。しかし、リハビリの努力で奇跡的に病から回復されたとの通知を受け、東京での「宮村牧師出版記念会」で笑顔の明るい宮村武夫牧師と再会することができた。福音宣教の闘いの同志である御夫人が傍らにおられ、益々福音宣教の志しをもやしておられる印象を受けた。
_本注解書にふれて
 本注解書、つまりテサロニケ人への手紙第一、同第二、ガラテヤ人への手紙、ペテロの手紙第一、同第二の注解書を読み、感想をメモ的に記したく思ったのですが、本書の厳粛な内容、著者の渾身の著述内容を筆者が安易に要約的に記すことによって、読者がこの注解書と向き合うのを妨げるような思いがするので、感想は最小限に止めたい。
 この注解書は、あたかも講壇から説教を聴くような、現代日本の状況の中に、冷静に、鋭く、他の聖書注解者たちの注解にも聞きつつ述べられた、宮村武夫独自の注解書なのである。文献表を眺めると有力な聖書学者たちと並んで、カルヴァンの聖書注解書も挙げられ、確かに宮村牧師はハーバード大学神学部での研鑽の時期に現代批評学の姿勢をおそらく身につけたであろうが、注解書全体に渗透しているのは、真理を証しする聖書の御言に即して、教会形成と宣教への委託への責任の一端を担う牧会者として、著者の並々ならぬ気迫のこもった注解書なのである。
 本注解書が、牧師たちの説教準備のときのよき指針の一つとなり、日本のキリスト者たちがこの注解書と向き合って、使徒パウロの福音宣教の言葉と各自が格闘されるよう願うものである。
  二〇一八年一月 _