福音主義とは何か その3 「終末論をめぐるパウロの雄大な万物観」

福音主義とは何か その3

「終末論をめぐるパウロ雄大な万物観」
                          
★1970年代の初め、クリスチャン新聞が、日本福音主義神学会の発足と深く関わる企画、『福音主義とは何か』とのシリーズを企画した際、先輩の先生方の末席に連なって、3回書く機会を与えられたのです。

第1回目が聖書について、
第2回目が教会について、そして最後が、
第3回目が、以下の「終末論をめぐるパウロ雄大な万物観」です。
 『礼拝の生活』を、青梅キリスト教会の現場にあって書き続ける中での営みです。
 あれから、やがて半世紀後の今、組織・有機神学を書くとしたら、間違いなく出発、基盤です。                         


「終末論をめぐって パウロ雄大な万物観」

 ローマ人への手紙の中心聖句
使徒パウロの立場で福音主義を考える場合「ローマ人への手紙」を開かないわけにはいきません。福音主義とは、ローマ人への手紙の中で中心的課題とされているものを、いつでもなく1970年、どこでもなく日本で深く理解し、その理解に従って戦いつつ生きていくことにほかならないともいえます。
 
豊かな内容をもったローマ人への手紙の中心聖句を一つ選ぶのは、困難な仕事です。
しかしこの困難な課題に、向う見ずに答えることが許されるなら、11章36節を選びたい。「すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
この短い讃美、礼拝の言葉は、ローマ人への手紙、いや聖書全体の中心メッセージを実にはっきりと表現しています。唯一の・生ける・真の神との関係で、すべてのこと・万物を位置づけています。すべてのこと・万物は、その始原(神から発し)、現在の保持(神によって成り)、終末的目標(神に至る)を、唯一の・生ける・真の神の中にのみ持つと、パウロは宣言しています。


万物の始原と終末
これこそ徹底的な神中心の思想と生活の基盤です。
人生の主なる目的であり、最上の幸福なのです。
神を崇め、神との関係で、すべてのこと・万物を見るのでなければ、私たちの状態は野獣よりも不幸になってしまいます(ジュネーブ教会 信仰問答、問1、3、4、6を参照)。
以上のように、11章36節で、唯一の・生ける真の神との関係で万物を見る場合、現在の保持ばかりでなく、始原と終末的目標の両方からも見ている点をとくに注意する必要があります。

次に、パウロにとって終末的展望がいかに大切であったかを知る有力な手掛りとして、8章18節から25節を取り上げたいのです。8章17節までと、27節以下では、救いとは、父、御子、御霊の愛の交わりの中に入れられることであり、イエス・キリストのゆえに、御霊によって、神を「アパ、父よ」と呼ぶ特別な立場に生かされることだとパウロは明示しています。
ですから、18節から25節までは、ポンと割り込んで書かれています。
しかしこれは、事柄の重要性を示しています。
すなわち、神を「アパ、父よ」と呼ぶ恵みの事実が、被造物全体との係わりや終末論的観点で実に雄大なスケールの展望において宣言されている重ねての恵みの事実です。

パウロは、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(22節)と断言しています。
さらに、「そればかりではなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくことを、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(23節)と続けます。これから明らかなように、キリスト者は、被造物自体の産みの苦しみの背景の中で、うめく者として、つまり途上にあるものとしての歩みを続けているのです。
ですから、キリスト者には政治的、宗教的、あらゆる意味での自己満足との戦いがあります。


キリスト者の戦い
しかも、それは、待ち望む者としての戦いです。
そうです。望みし神の恵みの事実に生きる者として、いかなる種類の虚無とも、キリスト者は戦うのです。
 
以上見てきたように、パウロは、神を「アパ、父よ」と呼ぶ救いの事実を述べている間に、被造物全体(すべてのこと・万物)の課題を終末的展望を割り込ませるようにして書くことにより、自己満足と虚無との戦いをはっきり打出しています。ここで大切なことは周囲(宇宙、世界、文化)との係わりにおいて、救いが考えられている事実です。

70年代への姿勢
 また終末的展望とは、目に見える事実以外のより根元的な現実、つまり神の恵みの事実にたいする望みを意味します。それゆえ神の恵みの事実からの断絶によって生じる虚無、これらも徹底的に戦わねばなりません。
 
結局、福音主義とはあらゆる種類の自己満足と虚無にたいして、パウロの理解し主張する意味での望み(道の光、戦略)と忍耐(足のともしび、戦術)をもって、1970年日本で生き戦うこと、底に徹して、事の本質を見抜き、神の恵みの事実を見据えて、いかなる一時的現象にも左右されずに戦いつつ生きることにほかならないと確信します。