継続から継承、時を越え時代を貫く、生駒聖書学院の歩み

継続から継承、時を越え時代を貫く、生駒聖書学院の歩み

2018年5月1日21時07分
生駒聖書学院で創立者クート氏召天50周年記念聖会 ひ孫の宣教師家族も参加

レオナード・W・クート氏とエステル夫人の写真を横にメッセージを伝える勝郁也(かつ・いくや)牧師=4月30日、生駒聖書学院(奈良県生駒市)で(写真:同学院提供)
生駒聖書学院(奈良県生駒市)の創立者である英国人宣教師レオナード・W・クート氏の召天50周年を記念する聖会が4月30日、同学院の大チャペルで開催された。同学院の出身者や関係者ら約150人が参加。クート氏から直に学んだ勝郁也(かつ・いくや)牧師(鹿児島シティチャーチ)が講演し、クート氏のひ孫に当たる宣教師家族も参加するなどした。
1891年、英国で生まれたクート氏は、22歳で石けん会社「ラックス」の日本支社長秘書として神戸に来日した。翌年、聖霊バプテスマを体験。その年に第1次世界大戦が始まるが、終戦と同時に27歳で独立宣教師となる。米国人のエステル夫人と結婚し、横浜で教会をスタート。地元紙で取り上げられるほどの大きなスタートだったという。
しかし、関東大震災で教会が壊滅し、現在の大阪市西成区に移転。ナメクジがはい回るような廃屋に、ミカン箱でベッドを造るなどして家族5人で生活した。しかし、伝道に対する熱い思いはまったく冷めず、当時日本最大の遊郭として知られた「飛田新地」でも路傍伝道するなどし、ネクタイで首を絞められたり、生卵を投げ付けられたりすることもあったという。
横浜時代から聖書学院を設立するのが夢だったが、生駒市で5千坪の土地を奇跡的に与えられた。そして1929年、12人の献身者を入学生として迎え入れ、生駒聖書学院がスタートした。
第2次世界大戦の開戦により学院は閉鎖され、クート夫妻はエステル夫人の郷里である米テキサス州へ移住。その間、同州サンアントニオに聖書学院を設立するなどした。終戦後の1955年に再来日し、生駒聖書学院を再開。67年まで学院長として、韓国やフィリッピンにも聖書学院を設立した(海外校はその後いずれも閉校)。体調を崩したことから、米国の息子の所へ引き揚げ、療養生活を送る。その後は一度だけ、同学院の新年聖会に講師として来日している。そして69年2月、枕元で愛娘から「日本の働きをどうしましょうか」と尋ねられると、「前進!」の声を最後に78年の生涯を閉じ、天国へ凱旋(がいせん)した。

聖会後に行われた立食会(写真:同提供)
現学院長の榮義之氏は種子島出身で、ちょうど同学院の卒業式が行われていた日に種子島から到着し、そこでクート氏と出会った。卒業式の会場は、クート氏が設立した大阪救霊会館(大阪市西成区)で、「式が終わるとその大きな手で包み込むような握手をしてくれ、『よく、いらっしゃいましたダね』と。その日以来、もう59年も過ぎました。あの日の感激を覚えながら、召天記念聖会を迎えました」と振り返る。
「聖書を読むダよ。聖書に立つダよ。聖霊を受けるダよ。聖霊に満たされるダよ。福音を伝えるダよ」と、独特ながらも心のこもった日本語でいつも語ってくれたという。「(クート氏の)慈父のような大きな愛を思い、恩師の残した生駒聖書学院の働きを、30人の神学生と共に継続中です」と話す。

クート氏のひ孫であるジョセフ・キャスカート宣教師家族と榮氏(中央)(写真:同提供)
榮氏と勝氏は同年齢で、同学院でも席を隣り合わせて学んだ同期生だ。聖会は榮氏の司会で行われ、勝氏は祝福を受け取ることをテーマに「祝福を御言葉の約束でつかみ取リ、福音を宣(の)べ伝えよ」と、参加者たちにチャレンジ。1時間余りにわたって、熱いメッセージを伝えた。
聖会後は、参加者全員による立食会が行われた。大阪弟子教会(同市生野区)が用意した「たこ焼きコーナー」が、行列ができるほど好評で、大人も子ども楽しいひとときを過ごした。
またこの日は、クート氏のひ孫であるジョセフ・キャスカート宣教師が妻と子ども2人の家族4人で参加。家族は2年前から奈良県五條市に住んでいるが、今後開拓伝道を始める予定だとし、参加者からは盛大な拍手で歓迎を受けた。



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