ヨセフに学ぶ ヘブル11章22節   名護チャペル・主日礼拝           2011年3月6日(日)

ヨセフに学ぶ
ヘブル11章22節  
名護チャペル・主日礼拝          
2011年3月6日(日)
[1]序
(1)今朝は、ヘブル11章22節のヨセフに焦点を合わせます。
11章8節以下のアブラハムから始まり、イサク、ヤコブと見てきた小さな旅の一応の締めくくりになります。
ここでは、今まで味わって来たことを復習する時間はありません。しかし今までの3人があってこそ、今最後の4人目だという事実だけは、念頭に置きたいのです。

(2)ヨセフについては、創世記37-50章において実に印象深く記されています。
ヨセフの記事の章数から言っても、アブラハムの場合に匹敵するほどです。しかしヨセフについて記す場合も、ヘブル人への手紙の著者は彼の臨終の時に集中しています。ヨセフがその生涯に何をなしたか、どのようなことを語ったか、その全体を絞り込んで、死に臨み何を望み、何を語ったかに集中しヨセフの真の姿を描き出しているのです。

[2]ヨセフの生涯、その節目
(1)17歳、30歳
 ヨセフについての記事の中で、生涯の節目として、17歳、30歳、110歳と3回年齢を明記している興味深い事実に注意を払い、ヨセフの生涯・信仰から学びたいのです。
①「ヨセフは十七歳のとき、・・・」(創世記37章2節)。ヨセフは17歳のとき、兄弟たちの妬みにより父祖の地を離れる羽目に立ちいたりました。

②17歳までのヨセフ
参照ヘブル11章9節、家庭における教育。ヨセフの生涯・信仰の土台は、この期間に据えられたのです。そして17歳のとき、故郷を異常な状態で去る経験をします。

③17歳から30歳までのヨセフ
 またヨセフは、連れて行かれたエジプトの地で奴隷として売られる経験をしました。そこで様々な不当な取り扱いを受けたのです。その中で、主なる神が共にいてくださるとの確信をもって、ヨセフは歩んだのです。創世記39章に見る、以下二つの点を注意。

◆創世記39章2、3節
 主人ポティファルは、主なる神がヨセフと共におられることを見たのです。偶像礼拝者である彼が、どのようにして、その事実を知ったのでしょうか。参照 敵対者アビメルクのイサクについての判断、創世記26章28節、その根拠として、26章12節。
 ヨセフの場合も、39章3節。
同時に、ヨセフは弱い立場でありながら、信仰の告白、9節、40章8節。ヨセフの生活を通しての証と共に、ことばによる証を見ます。

◆管理を委ねられるヨセフ
 ヨセフは、物や動物のように、売買されてしまったのです。その中で、主なる神がヨセフとともにおられるのを見て、ポティファルは、ヨセフに「その家を管理させ」(39章4節)たのです。「管理」は、ヨセフの特徴、参照22節、さらにエジプト全体の管理を委ねられます(41章46節以下)。
 しかしヨセフはポティファルだけでなく、ポティファルを越えたお方から管理を委ねられていることを深く自覚しておりました。ですから、誘惑に直面したとき、「そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(9節)と明言したのです。奴隷の立場にあったヨセフは、真の自由人、主なる神が立てられた管理者として、ポティファル夫妻が自分たちの思いのままに左右できる人物ではなかったのです。
 「管理」は、ヨセフだけでなく、誰にでも当てはまる、人間存在の根本にかかわるものです。アダムとエバ(本来の人間)は、エデンの園の管理を委ねられたのです。
参照、マタイ11章28節だけでなく、29節、30節も。キリストのくびきを担う生活・生涯。 コリント7章20節-24節、キリスト者の自由、「主に属する自由人」( コリント7章22節)。

(2)「ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳であった」(創世記41章46節)
30歳のヨセフ。30歳のとき、奴隷の立場にあったヨセフが総理大臣にも比較される地位につきました。その地位にあってエジプトの食糧危機を救い、同時に自らの父を兄弟たちを救うのです。

(3)三十歳からのヨセフ
 直接には記されていない、多くの苦難(51節の息子マナセの名前、「神が私のすべての労苦と私の父の全家を忘れさせた。」、52節のもう一人の息子の名前、エフライム、「神が私の私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」)を通して、ヨセフは、果たすべき使命のため整えられ、備えなれました。そのようにして与えられた立場、ヨセフは委ねられた使命を果たしたのです(創世記41章48-57節)。
このヨセフがどのように兄弟たちと再会し、彼らを受け入れて行くか、創世記42-50章で詳しく描かれています。
昔の仕打ちに対する仕返しを恐れる兄弟たちに、ヨセフは答えるのです。「あなたがたは、私に対して悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50章20節)。自分を奴隷として売るような兄弟たちを赦すヨセフの信仰。ヨセフの信仰の頂点を見ます。 このヨセフの生涯は人々に強い印象を与え続けてきました。詩篇105篇。使徒の働き7章9節以下参照。興味深いヨセフの生涯は、主イエスの生涯を指し示すと受け止められるのも当然でしょう。

(4)ヨセフ、110歳
「ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた」(創世記50章22節)
創世記50章24節、25節をお読みします。
「ヨセフは兄弟たちに言った。『私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へと上らせてくださいます。』そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。』と言った」(創世記50章24、25節)。

[3]ヨセフと二つの葬儀
(1)父の葬儀(創世記50章Ⅰ−14節)
 ①創世記50章5節、ヤコブの意志、エジプトではなく、カナンの地。

 ②創世記50章11節、カナンの人々の判断、ヤコブの葬儀、エジプトの葬儀と。

(2)「自分の骨について」(ヘブル11章22節)
「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」
 ①自分の葬儀について意識、備え
 ②その場合の基盤は、「イスラエルの子孫の脱出」、つまり出エジプト、来るべき神の救済の出来事。

[4]集中と展開
(Ⅰ)集中
 ヨセフも恵みのリレーの走者・ランナー、そのバトンは。神の恵みの事実、参照Ⅰコリント12章10節。その中で葬儀をする立場、キリストの復活の望みに生きる身丈にあったその人らしい葬儀。

(2)展開
 キリストの復活の望みに生きる葬儀(カナンの葬儀でも、エジプトの葬儀でもない)望みリンク
老年に達し死に臨んでも、なおひたすら望み確信していたことを通して、イサク、ヤコブ、ヨセフの信仰、信仰の生涯が明らかにされています。では、私たちは。
(1)オリブ園訪問の恵み、特に三人の百歳を越える方々の証。
 参照拙稿
「百歳の励まし」
「ヨセフは父の家庭と共にエジプトに住み,百十歳まで生き」(創世記50章22節)
 聖書が年令を記している人物の中で,創世記のヨセフは,特に興味を引きます.一七歳(37章2節),三十歳(41章48節),百十歳(50章22節)と三回も年令を明記しています. 
この十年毎月第4主日の午後,老健施設オリブ園の主日礼拝にあずかり続ける中で,ヨセフの記事は一段と親しみ深いものとなりました.八十代,九十代,そして百歳を迎えて,主の御名を讃美なさっている方々の姿に接しながら,おひとりびとりの十七歳をヨセフのそれに重ねて思うのです.十七歳のヨセフは.胎児(詩篇139篇13ー18節)から,一つ一つの段階を経て,最後には家族や故郷から切り離され新しい環境に移されたのです. 
 またおひとりびとりの三十歳を,三十歳のヨセフを通し思い描くのです.逆境の中,次々に与えられた場で忠実に役割を果たし続け,三十歳にして生涯の使命を与えられたのでした.委ねられた使命を果たし続ける,あのヨセフの姿に重ねて.
 何よりも三十歳から今にいたる年月,沖縄の戦後の歴史のただなかを歩み続けられたおひとりびとりの歩みの重さを思います.今,ヨセフのように(創世記50章19,20節),ご自分の生涯を導いてくださった主なる神の恵みを認め告白し,主なる神の御名を讃美しておられる姿.「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから」(50章25節)と将来への希望をご自身の存在をもって指し示し,接する者に生きる励ましを与えてくださっています.今月も,オリブ園での礼拝が楽しみです.」

(2)私自身、ヘブル13章7節、「生活の結末」

(3)私たち各自、詩篇90篇12節。
「それゆえ、私たちに
自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに
知恵の心を得させてください。」
(詩篇90篇12節)
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