1963年8月―1967年9月、ニューイングランド留学中、恩師渡邊公平先生から頂き、手元の残っている便り7通 その1

1963年8月―1967年9月、ニューイングランド留学中、恩師渡邊公平先生から頂き、手元の残っている便り7通 その1

★聖書をメガネに万物を見る。恩師・渡邊公平先生を通して教えられた立場に基づく著作集、予定の8冊中6冊が世に。
 またクリスチャントゥデイを主の備えてくださった場として受け止め、聖書をメガネに読みに読み、書きに書く細やかな歩みを続けています。
 1962年4月から年1962年3月までの1年間、渡邊先生の授業と単身赴任で学生寮に住まわれていた渡邊先生を訪問して重ねた個人的対話を通しての指導は、私のその後の歩みの基盤となりました。
 この1年間の基盤の上に、渡邊先生との間に継続した文通は、文字通り恵みの手段でした。その全部を保存をしているなかではありません。しかし何にも残っていないわけでもなく、例えば、4年間の留学中渡邊先生から受け取った便りの中、以下7通は手元にあります。

 今、クリスチャントゥデイに対する、日本基督教団、のJEA,キリスト新聞、クリスチャン新聞の対処に直面しています。私なりに杖を突きつつ確信満たされ意気軒昂、その手にあるダビデの石(Ⅰサムエル17:41)の一つは、そうです、恩師から受け取った便りです。

★1963年12月8日
「謹啓
 思えば、失礼を重ねたものです。思いつつも、こんなにのびでこんな無様なことをいたしてしまいました。
貴兄のような愛する友に、こんなにしてしまうとは、お許し下さい。あれ以来、もう前学期一つも経験されたことですから、色々な予期、期待とはちがったものもあったでしょうが、また色々なことを学んできたでしょう。あとで、またニュースとしてお知らせ下さい。

もう印刷所にまわっていますが、『聖書と教育』の三号がでます。「実在主義神学」を方法論の上から、それは「宗教と歴史」問題の真の解釈者たりえるかということを論じましたものを、載せました。注①
私は何んだか、見ること、聞くこと批判したくなって(正しく、神学的にですよ)仕方なくなり、自ら抑えるのにこまっています。しかし、これも、学校がよくなってくれ、学生諸君が正常な考え方にもどってくれ、日本の教会のためとなってくれることを望むがためです。一つ、O君(青梅キリスト教会)のことについて、心深く痛めていることを例にあげましょう。彼は学校をやめることになるかもしれません。確かに彼は極度の精神疲労のため休学ということになっており、学校の処置はこれですんでいるので、問題は平静になっています。し彼ともよく接して、色々と決るのを知っていた私として、彼に関した問題には、このJ.C.Cの根本にかかわることのあることを感じているので心痛めているのです。この点は恐らく他の教師方の感得していないことだと思います。
それは、この学校の内容が、彼のあの頭脳にあき足らなさを感ぜしめ、そのことが、彼をあれこれと言わしめ、気をいらだたせ、動揺せしめる結果となったということなのです。これとかかわることこそ、「彼が治るように」とかいう、ここの何時もの祈り文句よりも遥かに、考慮すべき最も実際的事柄であると思います。彼のような思考力活発な学生を留めおくことのできないような、学校の現状を悲しく思います。
過ぐる十月の学生達の前期末試験答案をみても、これで誤りのない「神の言」を誤りなく悟り、解明できるのかと思わしめられて、案じもし、暗くもなっていた際でもあり、O君のことを中心として、ひとり心中、学校のことを思っている所です。
矢張り、このことは時間をかけて解決すべきことでしょう。余りあせらないで、根強よくしていこうと思っています。

さて、私、十月末、学校の近くに移転しました。広いよい新築家屋なので、住み心持ちよい処です。あの日本御出発の少し前、私宅にお別れにお出の節、妻(私が少しも話していなかったことにあります)は失礼してしまったと残念がっていました。注②あの時の失礼をお許し下さい。
御勉学によき実りが与えられるように。主にあって
十二月八日
渡辺 生」

☆注①
 ここで言及されている,『聖書と教育』三号掲載の論文、「宗教と歴史問題の解釈者(実存主義的神学の方法論を前にして)は、後に、私の聖書解釈の理論的基盤となりました。宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ「聖書・神学」考』297,298頁)

☆注②
 この時、お留守だった渡邊清子先生とは、後に(1978−1985年度)、私が日本女子大学英文科の講座「聖書」を担当した際、教授であられ、親しい交流を重ねることが出来ました。