「お父さん、誤字、脱字気を付けて」

「お父さん、誤字、脱字気を付けて」

自分の年齢もさることながら、茨木に住む長男忍望が五十歳を越えたとは驚きです。その忍望が、最近電話で、クリスチャントゥデイが直面状況を、「むほんだね」と話し出した後、「お父さん、誤字、脱字気を付けて、お父さんがどんな偉そうなこと言っても、誤字、脱字をしたら、上げ足を取る人がいるから」。
 この率直な注意を聞きながら、忍望の言葉を深く心に刻んだ最初の経験を思い出しました。その時のことを以下のように記しました。

「アンヨをもって、テテもって」
1970年1月25日、寄居キリスト福音教会発行、『月報』に、以下のドストェスキ−がらみの文章を載せました。
「二歳半になる長男忍望が教会学校の幼稚科出席するようになってから、種々興味深い事実を観察しています。たとえば、暗誦聖句についてです。
 最初に習った暗誦聖句は、ガラテヤ5章13節の「愛をもって互いに仕えなさい」でした。暗誦聖句はと聞くと、「アンヨをもって、テテもって」と忍望は答えるのです。初めは、何のことか全く理解できませんでした。アンヨではなく、愛と言っているとばかり思い込んでいたので、どうして、テテ(手)が出てくるのか分からなかったのです。
しかし、やがて忍望は愛と言っているのではなく、アンヨ(足)と言っているのがはっきりすると、すべてが理解できるようになりました。
愛という言葉は、二歳半の忍望にとって、全く無縁なものです。
ですから、愛という言葉を聞いた時、その発音に比較的近い、アンヨ(足)と誤解したのは、至極自然なことと言えるでしょう。アンヨと言えば、どうしても、テテ(手)が出てくるわけです。それで、暗誦聖句と聞かれれば、「アンヨをもって、テテもって」と答える理由が分かりました。分かってみれば、何でもないことです。
 ところで、「愛をもって互いに仕えなさい」との励ましは、結局のところ、「アンヨをもって、テテもって互いに仕えなさい」と理解され、実行されねばならないのではないか。こうしたことを考えながら、ドストエフスキ−の『カラマーゾフの兄弟』を思い出しました。あの作品の中で、ゾシマ長老は、アリューシャが信仰と愛とによって、この醜悪な世界を浄化し、美化していこうと目指す時、「然るに実行の愛に到っては、何のことはない労働と忍耐じゃ」と語っています。
 十字架というキリストのからだにおける卑下により神の愛を示された私たちは、労働と忍耐を通し、自分の生かされた場所で実行の愛を具体化して行く道を歩む。神の愛を賛美しながら、現実の人間生活から逃避することなく、身に受けた神の愛の故に、苦難と悲惨に満ちた現実にしっかりと留まり、与えられた生を他者との人格的交わりを通して生き抜く。これが、人間・私、キリスト者に求められている生き方です。
 今年、私たちの信仰が、愛という抽象的な言葉に留まるだけでなく、手や足という具体化、現実化されていくこと願わざるを得ません。
 「愛をもって互いに仕えなさい」と「アンヨをもって、テテもって互いに仕えなさい」とは、決して別のことではないようです。」