十代の時に召命を受けたとして生きて来た説教者としての課題

十代の時に召命を受けたとして生きて来た説教者としての課題

 沖縄時代、日本基督教団の」方々と主にある交わりを与えられました。
 金城重明先生は、朝祷会の司会者として、「宮村先生の聖書観(徹底的聖書信仰)に立たないと沖縄で教会形成はできないと、講師の私を紹介してくださいました。

 また無教会の那覇聖書研究会の主日礼拝後の集会で、敬愛する平良修先生が「冷徹、かつ火のように燃える聖書人」と私を紹介、励ましてくだ下さった事実を感謝しています。
思わぬ方の思わぬ場での公言は、無冠の私にとって身に余る、誤解を恐れないで言えば勲章です。

 根田兄の言動、それを無視するいのちのことば社やいわゆる福音派の論客の方々の無視、沈黙は、私にとり聖書観、聖書解釈、教会観の課題なのです。個人的には、十代の時に召命を受けたとして生きて来た説教者としての課題なのです。