いざ、主にあるともらい合戦

いざ、主にあるともらい合戦 

 高校時代から60年来のキリスト信仰の友が、生涯を注いだ高校生伝道について、正確な記憶と持ち前のユーモアに富んだ連載をクリスチャントゥデイにはじめたのです。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/15200/20150130/koukou-omoshiro-banashi-1.htm

http://www.christiantoday.co.jp/articles/15556/20150313/koukou-omoshiro-banashi-4.htm
 私は、これが貴重な資料となると確信していましたし、健康の弱さを覚えている愛兄に励みとなると期待していました。
 ところが、彼が属する組織の現職責任者から、先輩の彼に圧力がかかったと推察されます。
 私と違ってやさしい気性、何よりも組織を愛し、その一致を大切にする友は、連載中止を伝えてきたのです。
 私は、親友に断固戦うように勧めることが出来ませんでした。
彼のやさしさは、私の激しさにまさったのです。
 その親友も、時満ちて主のもとに凱旋しました。
 
 なぜ根田兄のような現象がおこったのか、これほどの悪影響を現に与え続けていながら、なんだらかんだらとの言い訳、そうです、正当に聞こえる言い訳で黙認されているのか。
 一言多すぎると自他ともに認める、私は黙っていられません。自分が、取材拒否するのは認めるにしても、個人の確信と勇気で発言し書いている人に向かい、「非国民」と浴びせるようなことばは、明らかに一線を越えていると判断します。そんなことをすれば石が叫ぶ。主イエスの言葉です。
 臼田先生同様に、根田兄の現象にしつこくかかわる必要を覚えます。誤解を恐れずに言えば、私にとって、親友のとむらい合戦です。いかにも古い言い方ですが。教え子のある方々が、こんな私を化石的在り方とあきれたリ、それが今どき貴重なのだと上げたり、下げたリ。
 ちょうど時間となりました.お後がよろしいようで。