2000年11月1日 東京キリスト教え学園創立記念礼拝メッセージ 『保線夫として』 申命記三章1節〜11節                    宮村武夫 その1

2000年11月1日
東京キリスト教え学園創立記念礼拝メッセージ
『保線夫として』
申命記三章1節〜11節
                   宮村武夫 その1

★保身でなく保線、ホーク学長が提示し、私が従った道
[一]序
 おはようございます。
 今朝ご一緒に設立記念礼拝に集ることが許され、感謝いたします。二千年記念行事全体が「回顧と展望」の主題のもとに企画されており、、東京キリスト教学園史の節となる事柄の十年、二十年、五十年を記念し、学園の歩みを回顧と展望する、この趣旨を学園から送られて来た案内を通し私たちはよく承知しおります。今記念礼拝においても、企画全体が目指している回顧と展望、この主題を心に留め、一時を過ごせたなら、幸いです。 
 「回顧と展望」、この鍵語(キーワード)を考えますと、小さな個人的な経験を私は思い出すのです。先ほど紹介いただきましたように、一九八六年四月に沖縄に移り、首里福音教会の一員として生かされるようになりました。沖縄の生活で最初のまとまった「書く」仕事は、一九八八年一月十五日に出版して頂いた、『申命記』(新聖書講解シリーズ、旧約4)です。この小さな申命記講解を書きながら、明確に意識していたことの一つ、それは以下の点です。
 申命記の一章から最後まで、実に様々な事柄について言及しています。「しかしそれらはばらばらに筋道なく描かれているのではない。出エジプトと荒野での経験を回顧し、約束の地を展望する枠組み、大きな流れに従って書かれている。」(前述拙書、282頁)。
この回顧と展望は、申命記全体の構造であるばかりではない。各部分、例えば先程読んでいただきました、三章の一節から十一節を少し集中的に見るならば、その短い箇所にも、それなりに回顧と展望の枠組みを見出せます。このささやかな経験を念頭に置きながら、今生かされている場にあって、三章一節から十一節に焦点を絞りたいのです。
 今生かされいる場。一九八六年4月から沖縄の首里福音教会で一教会員また牧師としてキリストにあって生きる営みを始め、沖縄聖書神学校でも聖書解釈を担当するようになりました。この新しい生活の中で、一つの課題・喜びを明確に意識するようになりました。それは、以下のように図式できます。

『沖縄で聖書を読む課題・喜び』
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『聖書で沖縄を読む課題・喜び』 

 沖縄で聖書を読む課題・喜びから、聖書で沖縄を読む課題・喜びへと、一人の作家との内的な対話も一つのきっかけであったと思いますが、ごく自然に導かれて行きました。
 聖書を読む。この一事がどれ程大切であるか私なりに教えられ続けてきました。TCC、TCTS、そして沖縄聖書神学校いずれの聖書解釈の授業でも、聖書に何が、いかに書かれているか、聖書の構造に意を注ぐことをいつも繰り返し強調してきました。さらに著者がなぜこのことをこのように書いているのか、著者の意図を探って行く。探った著者の心に我が心を合わせ従い生きながら、聖書のメッセージを伝えていく。生活・生涯のただ中で聖書を読む、聖書を読みながら生活を重ね生涯を貫く。聖書を読む。この一事がどんなに大切であるか、一高校生として主イエスに従う歩みを始めた最初期にはっきり教えられたこと、四十数年、年を重ねた今も心より感謝し続けております。
 「聖書を」を読む。これは主イエスに従う私たちの歩みにおいて必要条件です。しかしそれは十分条件ではない。この一事を沖縄で次第に明確に意識するようになったのです。一人のキリスト者、一人の牧会者として聖書を読む。聖書に何がどのように書かれているか、このことをこのように書いている著者の意図を探り、聖書のメッセージに従い生きながら伝えて行く。それで十分なのだとの錯覚に、自分は陥っているのではないか。それは確かに必要条件、しかしもう一歩前進する必要がある。聖書に何がいかに、何故書かれているのかを知るのは、それをもって、自分が生きている現実、いや生かされている現実、私の場合で言うなら「沖縄を読む」ためではないのか。この小さな営みを継続することこそ、沖縄で聖書を真に読み、正しい意味での神学の営みをなし続けることではないと、心に刻むようになりました。
 より具体的に言えば、先ほど下川先生が紹介してくださいました、「台風の神学」の場合です。聖書で台風を読み理解する、これが台風の神学です。私たちは、沖縄の離島の一つ、伊江島で、春と夏中高生キャンプを持ち続けています。夏のキャンプの季節には、毎年ではないのですが、台風が非常にしばしば来るのです。ですから私たちは祈ります。。「神様、キャンプが日程通り行なわれますように。」と。そして台風が来なければ感謝します。それだけではなく、台風が来ても台湾の方に逸れるなら、沖縄に台風が来なかった、予定通りキャンプを行なうことができた、そう言って感謝します。当然なことながら、これは何処かおかしいんではないかと私たちは気付くようになりました。沖縄の台風も、台湾の台風も、まさしく同じ台風。台風をどう考えたらいいのか。聖書から台風を見る、それを「台風の神学」と呼ぶわけです。
 同様に、伊江島主僕キャンプ。今朝礼拝に出席している学生の皆様の中に、伊江島主僕キャンプに以前参加してくださったお二人の方がおられること、私には心からの喜びです。聖書で島を読み理解する。伊江島という五千人の方が住む島を聖書から読む。これが伊江島主僕キャンプの神学です。
 以上のような背景の中で、今朝、聖書でキリスト教学園の設立記念、記念すべき十年、二十年、五十年を読む営みを進めたいのです。勿論、私たちが直面する制約の中でのことです。少なくとも、二つの明確な制約があります。 
 「聖書で」と言うとき、本来「聖書全体で」なすべきです。しかし今、私たちは、申命記だけで、それもわずか三章1−11節をもって、しかもそれを深く掘り下げる余裕のない非常に限られた状況の中で営みを進めねばなりまん。
 さらに読むべき対象についても、記念すべき十年、二十年、五十年のほんの一部であり、わずか一つの側面に触れるに過ぎません。しかし明白な制約を自覚しながらも。今朝この礼拝の場が一つの小さな試論的モデルとして用いられるならば、キリスト教学園の創立を記念することになると、私なりに考えます。されに制約のもとでの回顧を通し、学園の将来について展望、一、二の点に限りできれば、幸いです。