2000年11月1日 東京キリスト教え学園創立記念礼拝メッセージ 『保線夫として』 申命記三章1節〜11節                    宮村武夫 その2                         ★保身でなく保線、ホーク学長が提示し、私が従った道

2000年11月1日
東京キリスト教え学園創立記念礼拝メッセージ
『保線夫として』
申命記三章1節〜11節
                   宮村武夫 その2

★保身でなく保線、ホーク学長が提示し、私が従った道

[二]申命記3章1−11節
 先ほど読んで頂きました申命記3章1節から11節に何が書かれているか、その大筋だけでも注意したいのです。

(1)三章1節
 イスラエルの民が、「バシャンへの道を上っていった」(1節)時、ただちに道が開かれたのではなく、「バシャンの王オグとそのすべての民は、・・・戦うために出て来た」とあります。この1節の内容を、新改訳は、2節文頭の「そのとき」で表現しています。そうです。「とき」、「歴史」に意を注ぐ必要があります。申命記三章1節以下は、漠然とした一般的事柄を記述しているのではないのです。特定の「とき」、つまり、主なる神のご計画の中ではっきりした位置を与えられている「とき」に、主なる神はモーセに「仰せられた」(2節)のです。
 皆様よく賛美なさると思います、リビングプレイズ中の「御手の中で」という賛美。あの「御手の中で」という表現は、英語ではIn His timeと言い表されています。私たちは、ときの流れの中で母の胎内に組み立てられ(参照詩篇139篇13節)、ときの流れの中で生かされている。この事実は、まさにあのお方の御手の中にある恵みだと言うのです。
 キリスト教学園が十年、二十年、そして五十年のときの流れの中で歩みを進めて来た事実は、単なる無人格的なときの中での営みではない。あのお方の「御手の中に」In His time、おいて営まれた、深く重い人格的ドラマなのです(参照詩篇31篇14節、15節前半)。

(2)三章2節前半
 新改訳が「そのとき」と2節文頭に記しているのは、この箇所を私たちが理解する助けになります。まさに「そのとき」、主なる神はモーセに、「彼(バシャンの王オグ)を恐れてはならない」と仰せられたのです。4節、5節が明示するように、オグの勢力は、いかにも強固で、モーセが恐れても仕方のない状況でした。事実、モーセは恐れていたと見るほうが自然です。恐れのただ中で、主なる神がモーセに、「恐れるな」と呼びかけているのです。

(3)三章2節後半
 そして主なる神はモーセに、「わたしは、彼と、そのすべてのの民と、その地とを、あなたの手にに渡している」と、約束なさいます。その際、「あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王にしたように、彼にしなければならない。」と、主なる神はモーセに命じておられます。モーセは自分が見聞きした過去の出来事、つまり、エモリ人の王シオンをめぐる事々をしっかりと回顧しつつ、今、まさに来たらんとしている目前の事柄−バシャンの王オグとの対決−に備えるのです。将に来たらんとしていることを展望するのです。モーセは、彼の歩みの一つ一つの段階で、丁寧に過去を回顧し、将来・未来をしっかり展望して行ったのです。 私たちも主日礼拝において、過ぎ去った一週間を回顧し、今、将に来たらんとする次ぎの主日までの一週間を展望しつつ、週日の日々、丁寧にまたしっかりと一歩一歩前進して行くのです。
 過去を回顧し、未来を展望しつつ歩みを重ねる神の民の歩み、この神の民の歩みを、日本バプテスト連盟佐賀バプテスト教会の牧師であられた、加来国生先生は、鉄道の保線区で働く保線夫のようであると説いておられます。
 少し恐れています。「保線夫」ということば、きょうびのTCUの学生諸君に分って頂けるかなと。
 「保線」の線は、線路のことです。「線路は続くよ、どこまでも」の線路です。線路を、列車の運転に支障のないよう保守、管理する、そのことを保線と言うわけです。安全で円滑な輸送を確保するために、線路の構造、機能を維持管理すること、これが保線です。そして保線のために働く方を保線夫と呼ぶのです。保線作業の種類は、極めて多いのです。 保線夫には、線路全体への揺るがない信頼があります。線路全体に対して信頼のない中で、保線の仕事なんか出来ません。列車が出発する駅、その出発点からずーっと、今、自分の目の前までちゃんと線路が続いている、この確信です。そして今、自分が受け持つ区間。保線夫は線路を初めから終わりまで全部を自分たちだけで担当するわけではないのです。保線区と言って、割り当てられた一定の区間があります。この区間に対し責任を持ち、この分の責任を果たすのです。
 自分が受け持つ保線区を過ぎて後も、この線路は続き、必ず目的地へ着く。この確信があるからこそ汗水流して働き、責任を果たすのです。自分が責任を果たさなければ、他の保線区の同僚の働きに大きな躓(つまず)きを与えてしまいます。また自分がどれだけ忠実に分を果たしたところで、他の保線区の保線夫が忠実に役割を果たさなければ、自分の働きは無に帰してしまう。他者に依存され、他者にに依存する存在、それが保線夫なのです。そうです。保線夫は全体を担うなど決してできない。またできていると錯覚してはいけないのです。また自己の役割を卑下することも許されないのです。
 私たちも、保線夫的自覚を与えられています。天地創造から新天新地へ向かう主なる神様の救いの歴史。新天新地を思うと、私は胸が熱くなります。「それはよく分かるけど、今晩のおかず何にする?」との一声。このコンビでなければ、沖縄で十五年生きて来れないのです。
父、御子、御霊なる神のご統治のもと、新天新地へ向かい万物に及ぶ、この驚くべきご経綸。静かに確実に進展する救いの歴史の中で、私たちのような者にも、分に応じた短い保線区を委ね、保線の役割を与えてくださっているとは。
 極めて多い作業を含む保線作業、そのことごとくは、実に地味な目立たないものです。汗と見えざる涙を流し、一歩一歩地道に役割を果たします。そして、聖霊なる神ご自身の列車が通過するときには、保線夫は身を隠すのです。あくまでも線路が中心、列車が中心なのです。 、