アラスカと私、その3 「キリストにある、二人旅」 ―那覇→霧島→星塚→那覇―

アラスカと私、その3
「キリストにある、二人旅」
那覇→霧島→星塚→那覇
                             
☆私なりに、旅の記録、特に宣教の旅の記録を断続的に書き続けてきました。
今まで書いてきたものを少し時間をかけて整理したいと考えることもありました。
しかし実行は、なかなかです。

 そこで、小さな踏み出しとして、2000年11月の旅の記録を、『首里福音』721号に載せたものを再録します。

[1]序 
11月23日(木)から25日(土)、宮城清喜兄と私・宮村は、60代になった二人で熊本芦北の吉田夫妻を訪問しました。以下少し詳しい報告をいたします。
 
11月23日(木)の午前11時過ぎ、君代姉の運転で、清喜兄と見送りのハツ姉と4名で、那覇空港に向かいました。

見送りの二人と分かれて、清喜兄と私が最初にしたこと、それは何かと言えば、誰でも手軽に写真のとれる簡易カメラを買うことでした。
これは私にとっては、ちょっとした決断です。このところ長い長い間、カメラに手も触れていません。それが、写真で記録を残しておこうと簡易とは言えカメラを購入したのですから、今回の旅の重さを初めから心深く受けとめていたのは明らかです。
出発前、清喜兄の写真を取りました。これが最初の一枚。旅の間中、小さなカメラが、大いに役に立ちました。

飛行機の窓際に席の取れた清喜兄は窓から景色を十分眺めることが出来、幸いでした。那覇から鹿児島まで、こんなに近いのか、ちょっと調子抜けするほどの旅の一歩。


[2]11月23日の午後と夜は
鹿児島空港から、吉田夫妻が待っていてくれている吉村聖書の家から一番近いバス停まで、あの奥多摩の杉の山を思い出させる道をバスは走ります。
清喜兄と「山ばかりだね」と、何回か繰り返しながら、停留所の名前のアナウスを聞き逃がさないように注意していました。
ついに窓の外に吉田ご夫妻の姿を見つけて、清喜兄と顔を見合わせながら外に出て、心弾ませ挨拶。
そこで写真をとりました。後で見るとこれがなかなかのもので、背景に温泉の白いけむりがたなびいているのが見え、その場の雰囲気をよく伝えています。

吉田兄の運転で、吉村聖書の家へ。
着くなり、吉田姉が、「早く早く、夕日がきれい、二階へ」と声を張り上げ、その声に導かれ二階へ。夕日を背景に清喜兄、ハイ、ポーズ。

吉村聖書の家について、以前吉田夫妻が送り届けてくれた、『吉村聖書の家』案内パンフレットに従い紹介します。

1972年、故吉村政文兄が聖書普及員の働きを終えたとき、鹿児島県御牧町霧島台に聖書の家が与えられました。ご本人の喘息の転地療養のため、またゆっくりと聖書も学び、心と体を整え、さらに主のための働きに備えたいと願っておられていたそうです。

吉村兄は、沖縄戦後大変な状態の中で、くすしい導きで聖書を入手、仲里朝章先生の下で信仰の導きを受け熱心に聖書を学ぶようになられたのです。後に、沖縄からの専属の聖書普及員として献身。1956年、潔子姉と結婚なさいました。その吉村潔子姉を通して、吉田紀子姉はキリスト信仰に導かれたのです。

聖書の家は建設のときから、教会の牧師方や兄姉に用いてもらいたいと部屋を大きく取り、トイレ・風呂場も1.2階に造られています。1982年に吉村兄が召天、吉村姉は10年来リウマチを患いつつ、沖縄と霧島との行き来が困難になっています。長い年月を背景に、今、吉田夫妻は、吉村姉から聖書の家の管理を委ねられています。

夕食後、4人で小さな集会を始めました。旧約聖書詩篇117篇を読み、味わいました。詩篇150篇の中で一番短い、たった2節の詩篇。しかしそこで賛美され、祈られている内容たるや実に雄大であり、堂々としたもので、小さいことの内に充満している神の恵み。   

聖望キリスト教会の集会を開く千葉県市川市の大竹堅固宅。その家の塀の一番目立つ場所に、詩篇117篇を刻んだ銅版をはめ込んでいます。
ある雨の夜、人生の重荷に耐えかねていた、一人の女性がこの銅版の詩篇のことばに目をとめ、勇気を奮って大竹宅の戸を叩き、大竹姉と一時を持ってからの証を千葉から遠く離れた九州の地で紹介。

集会の最後に、4人で聖餐式。1997年12月23日、芦北祈りの家で守った聖餐式をありありと思い起こしながら、あのときの3人だけでなく、今4人で聖餐式にあずかる恵みをしみじみと感謝したのです。

夜は、二階の大きな部屋で、清喜兄と二人で枕を並べて。
そうでした。寝る前にお風呂に入りました。正確にはシャワーです。御牧町のこの地域では、各家庭に温泉が配管を通し配られているのです。
洋式の湯船ではなく、シャワーを。温泉のシャワー、シャワーの温泉、初めての経験です。


[3]11月24日、忘れ難い一日
実は前夜の集会後、吉田夫妻はちょっとした早業を演じていました。それで鹿屋市星塚の星塚敬愛園キリスト教恵生教会を急遽(きゅうきょ)訪問することになったのです。数箇所に電話していると思ったら、そうなっていたのです。電話の間に、吉田夫妻が伊江島中高キャンプに招いている親戚の高校生と、急に吉田姉と電話を代わり私が話をすることにもなったのです。すべてが吉田夫妻のあのペースです。

9月に吉村姉の導きで、吉田夫妻がハンセン病国立療養所・星塚敬愛園にある、キリスト教恵生教会を訪問したことを、以前受け取った手紙の連絡で承知していました。

1時から始まる、恵生教会の火曜集会に出席するため、吉村聖書の家を後にしました。途中、けむりの桜島がよく見えるカー・フェリーの波止場に寄りました。
そこで、清喜兄と私二人の写真を吉田姉が取ってくれました。その写真が実によく取れているのです。今、応接室の私の机の横に飾ってあります。

集会にぎりぎり間に合い、宮崎県都城の教会から姉妹方と一緒に来られた、明石牧師によるヨナ書からの心に届く宣教に聴従できました。

集会後は、恵生教会信徒代表・福仲兄の司会で交わり会。福仲兄も牧師の石垣先生同様、石垣のご出身、十代の後半に沖縄を後に九州の療養所に来られて六十年近くになられる由、私の自己紹介後、本土から来て沖縄に牧会する者に対する、福仲兄のさりげないことばは、深い慰めと励ましに満ちたものでした。それは、頂いた週報に記録されていた、福仲兄の文章にも通ずるものでした。
「…生と死は表裏一体といわれますし、人は生きて来たように死ぬともいわれます。ハンセン病療養所の終焉をどう生き、どう幕引きをするか、今日のみ言葉(マタイ6章25−34節)を読むと考えさせられ、問われているように思います…」

交わり会の最後に、石垣牧師から、『恵みに生かされて』と題される、400頁に及ぶ恵生教会設立五十周年記念誌・貴重な記録を頂きました。頂いたと言えば、私たちが沖縄に戻って直ぐに、石垣先生から、葉書を受け取りました。掲示板に張ってありましたので、読まれたかと思います。
「…よい交わりのひとときを与えてくださいまして、ありがとうございました。沖縄での伝道、いろいろと習俗などの問題もあり、御苦労の多いことと思います。主のお守りと主の平安が、先生御家族の上に豊かにありますようにと、お祈り申し上げます。
宮城清喜様にくれぐれもよろしく。沖縄人のなつかしい性格を宮城さんに見出し、うれしかったです。」

交わり会から夕食の時間まで、私は、井藤道子老姉からお話をお聞きしました。清喜兄は、吉田夫妻と病める方々を訪問されました。
井藤姉は、星塚敬愛園や沖縄愛楽園で、長く看護婦として働いて来られた方です。お話を聞くうちに、幾人も共通の友人、知人がいることがわかり楽しくなり、御名を崇めました。井藤姉から『星塚敬愛園と私』という題の貴重な証の小冊子を頂きました。

夕食後の交わり会、いわば二次会は、人数こそ少なかったのですが、歌あり、踊りありで、それはそれは…でした。

その夜は、ゲスト・ハウスの一室で、再び清喜兄と枕をならべて。そして11月25日早朝、敬愛園を後に、タクシーとバスで鹿児島の空港へ。空港では、吉田夫妻に念を押して依頼されていた本場ものの薩摩揚げを購入。そうです。26日の主日礼拝後、一人一枚づつ配った、あの薩摩揚げです。

那覇空港からは、行きと同じく君代の運転する車で、宮城宅へ。
最後に自動車の前で、二人の記念写真をとり、旅は感謝のうちに終わりました。

[4]結び
そもそも、今回の旅の発端、それは水曜の聖研・祈祷会にあります。聖研に続いての祈祷会、そこでは2,3名に分かれて祈るのが常です。10月の初めでした 。ある祈祷会で、清喜兄、吉田兄と私三人で祈るため応接室へ行き、祈りのときを持ちました。今ではどうしても経過を思い出せないのです。グループ別の祈祷を終え、出席者一同が一緒に集ったときには、吉田夫妻訪問を決めていました。
確かに祈祷会はものごとの源のような場です。現在水曜の聖研・祈祷会に加えて、教会学校成人科(日曜午前9時半)、小さな聖研・祈祷会になっています。出席をお勧めします。

今回の二人旅を契機に、20年前の二人旅を思い起こしました。
一つは、アメリカの牧師であるG.マクドナルド先生とフィリッピンへ1週間の旅。
他は青梅キリスト教会の木村執事とのデトロイト地方とアラスカへの二人旅。
また佐々木牧師との同じくアラスカへの旅。それぞれ、今回の二人旅同様、忘れ難い思い出です。そして私たちの共通の根源的な旅に思い及びます。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11章13節)