民数記味読・身読の手引き その27 民数記27章 

民数記味読・身読の手引き その27 民数記27章   
民数記27章

(1)1ー11節.マナセの一族,ツェロフハデの娘たちの相続権の主張.
この箇所(旧約聖書全体についても)を理解するためには,古代中近東の歴史を知る必要.例外(社会的に高い地位の者)はあっても,女性には相続権が認められていなかった.日本の例参照.
そのような背景の中で,この箇所では,女性の相続権が明確に保証.(参照,類似性・統一性と区別性,参照渡邊公平著,『現代に生きるクリスシャン,カルヴァンの思考に従って』).
①この権利が確認されて行く過程も興味深い.
2節,公の集まりで取り上げる.単に個人的なことではなく公に.

5ー7節,主の前,会衆の前,この両面が,大切.機械的に読み過ごさないように.考えながら,この過程をたどるなら,彼女たちの言い分を聞き,まず論じられたと考えられる.それが何時間か何日か不明.その中で導きを求め,その経過の中でモーセは祈る.集まりの中でか,一人退いてか不明.論議が白熱したときもどうして良いかわからなくなるようなこともあったと思われる中で,8節に続く.

 8節後半以下は,モーセから会議に,会議からイスラエル全体に伝えられる.ここでも両面,会議と神の導き.教会における会議の意味,役員会や教会総会.それは単に民主主義だからと言うのでなく,人々の意見を通して主なる神が導かれると信じる故.

②神の民と周囲の人々との関係.違い.たとえば,旧約聖書に女性の名を書名とする,ルツ記,エステル記の存在の意味.

◆最も大切大切な土台、レビ記25章23節。

 経済と倫理(りんり)道徳、聖書の教えと経済。
土地に関しても、すべてのことについても、人間は神からの賜物を管理する管理者であって、最終的な所有者ではない。

(2)12ー14節。約束の地の展望と死の厳粛な事実。民の罪とモーセの罪。参照主イエスが私たちの罪を自ら担ってくださる。

(3)上記の事実を知らされ、モーセはそれにどのように備えるか。神の民のために祈る。モーセらしい祈り。
自分の生命には限りがる。しかし神の民の歴史には限りがない。この神の民のために祈る。私たちもやがて召されることは確か。そのときかく祈り召されたいもの。
内村鑑三は、臨終に際して、宇宙の完成を祈り召された。主の祈りを祈る私たちの祈りも同じ。モーセ個人には完成は無かった。個人としては挫折。しかしモーセはこの民の中で祈り考え、後継者を立て、他者とのかかわりの中で、完成の中に導かれて行く(参照ヘブル11章39ー12章3節)。

 モーセからヨショアへ、これは私たちが次の世代のために祈る責任と特権を与えられていること示しくれる。

 以上のことと平行してヨショアは長期間にわたる訓練。

 私たちはモーセやヨショアに比較できる者ではないけれども、ここに見る原則は、私たちにとってもそのまま当てはまる。たとえば親としても教会学校教師の一人としても、主なる神はいつの時代でも、ルツやエステルを立ててくださると信じて祈って行く。

 民数記27章は、年現在の私たちの生き方を指し示す。私たち個々は結局は未完成。誤解を恐れずに言うことが許されるなら、私たちの主イエスご自身も、人の目から見れば十字架にかけられ挫折されたお方。主イエスの完成、モーセの完成、私たちの完成。完成を思いつつ祈り行く生活と人生。