平和をつくり出すために〜「家族国家論」か「神の家族」か 〜                             古賀清敬

平和をつくり出すために〜「家族国家論」か「神の家族」か 〜
                            古賀清
★2017年8月号 福 音 時 報 第776号 に掲載された文章を、転載する許可頂け感謝です。
 古賀清敬先生は、日本キリスト教会北海道中会宣教教師で、北星学園大学で教鞭をとられています。
 古賀先生との出会いは、1969年4月東京キリスト教短期大学の授業の場でした。古賀兄は1年生の学生、私は教師1年生でした。あれから約50年、こうした限られた方法でも協力でき、感謝です。

☆「ちょっと古くて硬い文章であるが、我慢してお読みいただきたい。これは小野村林蔵牧師が400人の日本基督教会大修養会参加者に語ったものである。

「先ずキリスト教の側に於いて必要な事は、……その(日本主義の:筆者注)中心思想である皇室中心主義は、日本国の永い伝統と歴史とを背景とする上に、民族的感情によって深く強く培われてゐるものであり、日本民族の歴史と終始すべき性質のものである事……。
次に此の皇室中心主義の伝統は民族の統一性と相結んで綜合家族の観念を、裏打ちしつつある事を承認すべきである。是れらは議論ではない。現実の事である。(143字削除) 而してその皇室中心主義、綜合家族制度は、キリスト教眞理のどの点から見ても、何の矛盾も衝突もあるべき理由の無いものである。更に況や此の皇室を中心とする綜合家族的自覚は、日本民族の国家的結合、一致を功利以上のものたらしめる尊貴な要素である。」(小野村林蔵「現代の思想=その批判と我等の主張」1935年)
 
 平和をつくり出すためには、戦前・戦時中の教会がなぜ、どのようにして、戦争に協力、順応、あるいは抵抗、挫折していったのかを、実態に即してとらえておくことが大事な手がかりとなる。まず断っておくべきは、上記のような思想は、多少の多様性はあっても植村正久牧師ら明治期以降の教会指導者の大多数が抱いていたこと。さらに、それは政府が推進しただけでなく、一般ジャーナリズムでも流布共有されていた言説であり、キリスト者もその影響を色濃く受けていたという実情である。
 ここで語られている国家論に対しては、同時代にナチスに抵抗したドイツ告白教会のバルメン宣言(1934年)と対比され、国家が人間の生活全体を支配してはならないこと、また国家は「神の定め」であり、一定の安定性を持ってはいるが、「創造の秩序」ではなく可変的であることが指摘されてきた。
 小野村牧師は、「創造の秩序」という言葉こそ使っていないが、皇室中心主義の伝統と民族の統一性とが綜合家族制度を形成してきたことは「議論ではなく現実」であると断言し、不可変のものとしている。また「綜合」という表現には、人間の生活全体を覆うという主張が含まれており、バルメン宣言から援用しての批判は的を射ているといえよう。
 しかし、それだけではまだ十分ではない。東北アジアと日本の歴史にとって天皇はどのような存在だったのか、民族の統合性などどこに存在したのか、という批判的視点からも考察されるべきであろう。
 直近の日本の歴史に即して言えば、幕末・明治初期の内戦と薩長藩閥政府による露骨な報復的差別政策(廃藩置県、インフラ整備、人材登用面での「賊軍」差別)が、各地の人々の敵意や憎しみを癒すことなく増大させてきた。またかつての天皇制の絶大な権力基盤は、単に法的地位だけではなく、四大財閥を束ねてなお数倍もある「天皇財閥」の経済力にあるのを人々は肌で感じていたからである。それらが戦後冷戦状況下で戦争責任を十分明らかにし
ないまま、さらに重層的にこの国の人々に澱のように蓄積されているのを筆者は痛感している。
 また、それらの大きな動きにからまって、部落差別、アイヌ民族への差別、朝鮮人など外国人への差別、障がい者性的少数者への差別が根をはっており、最近はそれが街頭ヘイトデやSNSでさも当然であるかのようにまかり通っている。他方、それら不当な差別に抵抗し、人間としての尊厳を回復しようとの努力が多様になされてもきた。
 問題は、これらの差別や報復的政策によって生み出されてきた敵意や憎しみを、天皇中心の家族国家論で包み込んで、無かったかのようにごまかすのか、それとも民衆の分裂を見すえたうえで、それらをどう克服したらよいかと苦悩しながら取り組むのか、であろう。
 教会が「神の家族」と表現されるのは、天皇中心の家父長制的な意味ではなく、マイホーム主義的な意味でもない。具体的な罪深い歴史のただ中で、十字架によって敵意を滅ぼされたキリスト・イエスをかなめ石として、もはやだれも外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者とされた救いの出来事をしめしている(エフェソ2:14−22)。
 各地に建てられている教会が、キリストの和解の福音を託されている者として、それぞれの十字架を背負って和解の務めを果たしていくという歴史的宣教課題があるのではないだろうか。(北海道中会宣教教師)