1977年10月、ニューイングランドの母校訪問を中心に旅行。その旅先からの手紙 その2

1977年10月、ニューイングランドの母校訪問を中心に旅行。その旅先からの手紙 その2

★この旅行の切っ掛けとして、2つのことがありました。
一つは、ゴードンを卒業した時、一人の教授が、卒業後10年したら母校を訪問、受けた教育がどのように役立ったかなど報告するようにと、印象的な未来展望を伝えてくださっていたこと。
 もう一つは、ことば社の7巻ものの聖書講解のテサロニケⅠ、Ⅱと1コリントを担当、まとまった稿料の収入があったこと。
ニューイングランドの母校を訪問する途中、ハワイ、フィラデルフィア、アラスカに寄りたいと計画し君代をあきれさせたのを思い出します。

☆10月5日、1977年
「頌主
 日々、主の祝福がありまうように。
昨日は、ハワイ大学に行きました。前に手紙で書いたように、リッチが子供たちと、水曜日の午後一緒に過ごすようにしているので、その時間ハワイ大学を訪問したわけです。ハワイ大学は、ハワイ唯一の中心的大学と言うだけでなく、東西文化センターなどユニークな研究所もあって、ハワイ大学へは、実に広範囲の所から研究生や学生が集まって来ているそうです。
 TCCの小田先生、綾部先生の娘さんなど、その他幾人かの人々がいるわけですが、誰にも会う機会はありませんでした。アイスクリーム(ブルーベリー)を食べたリ、馬鹿でかい本屋で本を見たリ(買いませんでしたので、ご心配なく)日本式庭園を散策したりなどで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
 ハワイ大学の後は、ホノルル市全体を見渡すことができる州立公園(山の頂上)までドライブ、4時半ごろリッチの家に戻り、夕食その他の準備の後、7時半から祈祷会に出席。エペソ6:10以下から、神の御旨と祈りの関係について話しました。影山夫人と3,4名の日本語部の方々が参加していたので、時々日本語でも話したりと初めての経験でしたが、英語も問題なく話せました。
 集会の後で、幾人かの方々が、とても良いメッセージだと言ってくれました。リッチも、私の英語が前より良くなったと言ってました。とにかく話すのは私の責任、理解するのはあなた方の責任と割り切って、相手が理解できるかきなと案じな柄でなく、とにかく恐れないで話すためでしょうか。
 出席者は、訳40人、普段より多数のようでした。その中で、いわゆる白人はリッチ一人、大部分は日系、そして少数の中国系。そこで英語で話すのは変な気持ちです。学校でも、二十数名のクラスの中で、白人は、2,3名の由。
 一世の方の中では、沖縄出身の方が多いそうです。沖縄とハワイは、気候、地理的環境も似たところが多いわけです。沖縄出身と聞くと、近親感を覚えます。
 集会から帰ってからは、リッチたちのスライドを見せてもらいました。ニューイングランドのウエストピバディー教会時代には、約20名のGordon-Conwell神学校の神学生と100名近くの学生が出席していたとのこと。スケールは違いますが、学生たちとの関係が密だったのは、青梅の私たちとおなじようなところがあった様子です。
 忍望にハワイ大学(学費が安い)に来たらと言ってましたし、パムと結婚したらとリッチが話していたら、忍望は英語が話せるのかとパムが真剣に聞いて来ました。
 ハワイで、武夫ご主人様より」