『ビブリカル・聖書的エキメニズムの提唱』 その2 「聖書的エキメニズムの恵み」

『ビブリカル・聖書的エキメニズムの提唱』 その2『ビブリカル・聖書的エキメニズムの提唱』 その2

★以下の文章を書く機会がありました、感謝。

「聖書的エキメニズムの恵み」

栃木県宇都宮にあるカトリック松が峰教会の御前ザビエル神父は、『喜びカタツムリの便り』の一斉発信の度ごとに、心のこもった応答をくださり励まされています。

 今回、拙書『礼拝に生きる民 説教 申命記』をお送りしたところ、以下のようなメールを頂きました。

「宮村武夫先生・君代さま
『礼拝に生きる民』を本当にありがとうございます。
読ませていただきます。

この間、司祭叙階25周年を迎えたことになりました。
そのときの教会報の巻頭言と写真を添付させていただきます。

お祈りのうちに
ザビエル」
 
 私たちの間を繋ぐ聖書に対する、ザビエル神父の熱き思いが、巻頭言を通して伝わってきます。

(巻頭言)「抱いている希望」

「・・・
25年前に司祭になりたい志について書いた願書を読み返しました。当時の気持ちは次のようなものでした。
・ 日々の生活において、人々と分かち合った神のことばをミサの中で祝いたいこと。
・ いろいろな苦しみや悩みを抱えている人々のために、司祭の奉仕を通して、主イエスの慈しみ深い愛を示すこと。
・ 主イエスを信じる人がとても少ない日本の地で、イエスのことをまだ知らないたくさんの人々に代わって、ミサをささげる中で、彼らも心と体を癒してくださる主イエスの食卓に近づけますようにと祈ること。
・ ペトロの手紙にあるように、「抱いている希望について問いただす人には、いつでも、答えられるように」(1ペトロ3・15)用意している司祭になりたいこと。
 抱いている希望について問いただす人には、いつでも、答えられるように用意しているということは、言うまでもなく司祭に限らず、洗礼を受けた信徒皆に与えられている大切な使命です。
 ちょうど今年の9月17日(月・祝)に、松が峰教会を栃木集会会場として、さいたま教区のみことば委員会による出前研修会が行われます。「キリストを伝えたい人は集まろう。なぜわたしたちは教会に集うのでしょう?受洗のときの思いに立ち返り、わたしたちイエスと結んだ絆を確認しましょう!」といった趣旨の集いです。

 福音によっていただいた希望を告げ知らせ、証しすることについては、 一人ではとうてい多くの成果をあげることはできません。日曜日のミサは大切ですが、 同じ小教区の信徒として、他の信徒との分かち合いは欠かせません。人々をキリストへ導くためには、段階的にまず個人の付き合いを大事にし、信頼が生まれて一緒に祈り、福音を聞き、そして教会にもどうぞと誘うようにします。小教区の場で、みことばを分かち合い、みことばで祈る集いがたくさんあったらうれしいことです。小さいグループで、自分の悩み、苦しみ、喜び、希望を分かち合い、一緒に神のことばを聞き、一緒に祈り、共に歩んで行く集いは、豊かな実りをもたらす福音宣教そのものだと思います。人々の間、人々の中に、証しする小さなグループがあれば、福音の光が広まっていくのではないでしょうか。 
教会は、その性質上、宣教者です。すべての人に福音を述べ伝えることが、教会の
第一かつ本来の使命です。この使命を果たすには、まず、言葉よりも神と人々に仕える生き方をとおして福音を輝かせることです。生き方をとおして示された福音は、命のことばとして告げ知らせる時もあります。救いのことばを受け、信じることになった人が、教会共同体に迎えられ、洗礼を受けてキリスト者になれば、それ以上の喜びはありません。

25年前に司祭叙階の恵みを受けたわたしに、 そしてすべてのキリスト者に与えられている使命を一言でまとめるなら、 パウロの次の言葉が、一番適していると思います。
「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」(使徒言行録26・16)。
「見たこと」とは、 父と子と聖霊への信仰のすばらしさのことであり、「奉仕者」とは、日本の地で神、教会、人々に仕える者となることです。与えられた使命をキリストの恵みによって果たすことができますようお互いのために祈りましょう。」

 宇都宮で毎年1月に持たれている、キリスト教一致共同祈り会に、宇都宮キリスト集会はその出発から深く関わってきました。
 私も、今年また2008年に、祈り会で宣教(「ビブリカル・聖書的エキメニズムの提唱」『愛のわざとしての説教』宮村武夫著作1)の機会を与えられました。
 沖縄の地でささやかな形でなし続けた沖縄基督公会との提唱が、栃木県宇都宮でそれなりに実現されている恵み、しみじみとした慰めです、感謝。