榊原康夫先生に学ぶ実践 その2

榊原康夫先生に学ぶ実践 その2

★今、私は、3つの点に意を注いでいます。
1.この訳語や訳文は、絶対に認めてはならないものがあるかどうか。あるとすれば何か。
2.この訳語や訳文は、他のものに比較して絶対に優れており、ぜひ紹介し提示すべきものがあるかどうか。あるとすれば何か。
3.1はそれぞれ大変な労力を払って営われている聖書翻訳においてはごく限られていると推察されます。また、2も他の訳語や訳文を押しのけて絶対的に提示する必要があるというのも、案外限られているのではないかと予測されます。つまり、大部分の場合はあれでもよい、これでもよい。どちらがより良いか、絶対的ではなく相対的な課題である。
この3点を互いに了解できるならば、1つの委員会訳を求め決定する道は、自ら開かれるのではないか。
この道を榊原先生は自覚し、実践していたのではないかと、今考えるのです。

【聖書の切れ味 その11】神のご計画の全体

「神のご計画の全体を、余すところなく」
            (使徒の働き20:27、新改訳)
「神の御計画をすべて、ひるむことなく」
            (使徒言行録20:27、新共同訳)
「神の計画をみな、余す所なく」
            (使徒言行録20:27、フランシスコ会訳)
「神のみ心のすべて」
            (使徒記20:27、前田訳)

【聖書の切れ味 その12】神の御前こそ光

「いのちの光のうちに、神の御前を歩む」
            (詩篇56:13、新改訳)
「命の光の中に 神の御前を歩かせて」
詩編56:14、新共同訳)
「命の光のうちに、神の前を歩む」
            (詩編56:14、フランシスコ会訳)

【聖書の切れ味 その13】荒野、そこが恵み

「荒野で恵みを得た」(エレミヤ31:2、新改訳)
「荒れ野で恵みを受ける」(エレミヤ31:2、新共同訳)
「荒れ野で恵みを見出す」(エレミヤ31:2、フランシスコ会訳)

【聖書の切れ味 その14】遠く、近い主
「主は遠くから、私に現れた」
(エレミヤ31:3、新改訳)
「遠くから、主はわたしに現れた」
(エレミヤ31:3、新共同訳)
「主は遠くからわたしに現れ」
(エレミヤ31:3、フランシスコ会訳)

【聖書の切れ味 その15】すべての所で、主のご臨在と恵み

「天にしても、地にしても」
申命記3:24、文語訳)
「天、あるいは地に」
申命記3:24、新改訳)
「この天と地のどこに」
申命記3:24、新共同訳)
「天に、また地に」
申命記3:24、フランシスコ会訳)


【聖書の切れ味 その16】見張り場に、しっかり立つ

「とりでにしかと立って見張り」
ハバクク2:1、新改訳)
「砦(とりで)の上に立って見張り」
ハバクク2:1、新共同訳)
「砦にしっかりと立って見張りをしよう」
ハバクク2:1、フランシスコ会訳)

【聖書の切れ味 その17】いつも生きて執り成す、主キリスト

「キリストはいつも生きていて」
(ヘブル7:25、新改訳)
「この方は常に生きていて」
(ヘブル7:25、新共同訳)
「イエスは、常に生きて」
(ヘブル7:25、フランシスコ会訳)
「彼はつねに生きて」
(ヘブル7:25、前田訳)

【聖書の切れ味 その18】
自分と自分の家族、ここからの広がり(レビ記16:11)

「自分と自分の家族のために」(新改訳)
「自分と一族のために」(新共同訳)

【聖書の切れ味 その19】
年に一度の恵み(レビ記16:34)

「年に一度」(新改訳)
「年に一度」(新共同訳)
「年に一度」(フランシスコ会訳)

【聖書の切れ味 その20】
キリストは、ただ一度(ヘブル7:27)

「キリストは自分自身をささげ、ただ一度で」(新改訳)
「このいけにえはただ一度」(新共同訳)
「この方はご自身をささげたとき、ただ一度だけ」(フランシスコ会訳)
「彼はひとたび自らをささげ」(前田訳)