クリスチャン新聞と私ー特に二つの思い出ーその2

クリスチャン新聞と私ー特に二つの思い出ーその2

★あの時のクリスチャン新聞シリーズを企画、『福音主義とは何か』が、日本福音主義神学会の発足と深く関わる企画であったことは、明らかです。
10回のシリーズのうち、先輩の先生方の末席に連なって、私にも3回書く機会を与えて下さったのです。以下は、その1回ぶんです。                         
「聖書の豊かさ−生きて働く神のことば−」
「神に聞き従う
 聖書には、一貫して流れる主張があります。唯一の生ける神が語り、神の民はこの語りかけに聞き従って生きよ、という主張です。
 
たとえば、万軍の主イスラエルの神は、預言者エレミヤを通して、「ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、『わたしの声に聞きしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい』」(エレミヤ7章23)と宣言します。
 中心点は、はっきりしています。イスラエルが、神の民となり、神の民として祝福の中に歩み続けうるのは、ただ神の声に聞き従う決断とその実行を通してのみだと主張されているのです。神の声に聞き従うことと、たんに宗教習慣、宗教儀式を守ることとは別のこととされています。そして、この区別の中に、聖書の信仰、キリスト信仰の本質を理解する鍵があります。
 
私たちが、神の民、キリストの生ける体である教会の一員となるのは、ある宗教習慣、儀式からキリスト教という宗教習慣、儀式に移ったということを意味しません。キリスト者になるとは、何であるよりもまず、神のことばに聞き従う者とされるということです。
 ここで、大切なことは、神のことばは、聞き従う神の民の中に、現実に豊かな働きをなし続ける事実です。
 神のことばの豊かな働きの中の二つに限って、考えてみたいのです。

1.神のことばの働き
 第一は、列王記下22章に実例をみる神のことばの働きです。ここには、主の宮の破れを繕うとしたヨシア王が、破れた主の宮で見つかった律法の書によって、みことばに聞き従う者とされた様が生き生きと描かれています。
 みことばは生きて働きます。主の宮の破れを繕うとするヨシア王の心の中に、みことばは悔改めとへりくだりを生ぜしめ、衣を裂く具体的な自己否定を通して、自己満足から解き放ちます。
 次に、神のことばの第二の働きについてはイザヤ書40章に見ます。
ここには、
「人はみな草だ。
その麗しさは、すべて野の花のようだ。
主の息がその上を吹けば、
草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。」(40・6〜8)
と、枯れるもの、しぼむものとしての空しさが、あからさまに描かれています。

2.虚無からの課題
 すべての飾りが取り除かれたとき、人は枯れるもの、しぼむものとしての自己の姿を深く意識せざるをえません。この枯れるもの、しぼむものとしての空しさ、虚無から逃避することなく、何物かに酔うことなくして、人は耐えうるのでしょうか。
何物かに逃避する、何物かに酔う。宗教に逃避、宗教に酔うことを含めて、これが、枯れるもの、しぼむものとしての自己に目覚めてしまった人間の取りうるべき唯一の道なのでしょうか。
ところがイザヤは、
「たしかに人は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」
と、続けます。
とこしえに変わることのない神のことばによってのみ、枯れるもの、しぼれるものとしての自己を知られたものが、逃避する事なく、酔うこともなく、虚無から解放されると示されています。
 
自己満足を虚無から解放される事なくして、人は、本来の人として生きることができません。唯一の生ける神の栄光を顕し、永遠に神を喜ぶために、本来の人となるために、神のことばによる以外ないというのです。
まことに「人はパンだけで生きるものではなく、その口からでる一つ一つの言で生きるもの」(マタイ4章4)です。