フェイスブックを通し知り合いなった、青森の千葉敦志先生からの教示、直視 すべき課題

フェイスブックを通し知り合いなった、青森の千葉敦志先生からの教示、直視
すべき課題

「義務教育とは一体なんだろうか?色々な定義もあるかもしれないが、結局は「その国の国民として行きていくために最低限必要とされる教育」ということができるだろう。

先日、知り合いの青年から妻に電話があった。お金を貸して欲しいと言う。貧困家庭に育った彼は、高校を卒業して、都市部に進学するまでは我が家にちょくちょく遊びに来ては、私の子供達の相手をしたり、私達と夕食を囲んだりしていた。進学してからも夏冬の帰省の時にも私たち家族と食卓をかこむなど、他人とは思えない付き合いをしてきた。そんなこんなで、時々は、食料などを送ったり、最寄りに行った時には呼び出して、夕食を一緒に食べたりしていた。彼は貸与奨学金を利用し、アルバイトをしながら希望を持って都市部で生活していたはずだった。

妻は「出してあげるのはいいけど、夫に相談しなさい」と私に話をつないで来た。そこで、いくら欲しいのと聞くと「家賃分の4万円を貸して欲しい」と言う。なんかチャラチャラした感じ。過去の色々の経験に照らして、こりゃあ相当あるなぁと直感、探ることにした。
「家賃は何ヶ月払えていないのだ?」と聞くと「3ヶ月分」との答え。「本当は12万欲しいのか。手持ちは?」と聞けば、「2万円ちょっと。…でも、今月末には給料が入る」と言う。でも12万円程度で済むわけがない。「カードもあるな?今月はいくらの支払いだった?」「4万円は払った」と言う。「4万はって、一部だけってことか?」「でも、担当の人が、頑張って返していきましょうねって、了解してくれてる」「借金するのに、総額が言えないってどう言うことだ?本当はいくらだった?」「11万円…」「リボか?」「そう」。
リボルビング払いで月額11万円だと??

リボルビング払いは、別名自己破産者製造システムと言われるほどの巧妙な仕組みで、個人の有り金を全部引っ剥がしていく。本人も総額は把握していないが、多分推定で100万円越えるだろうことがわかる。そこにさらに奨学金が乗っかるわけだ。「いくらだ?」「300万円ぐらい」「すると400万円越えだな」
彼は、突然ワーッと泣き出した。
まだ20代前半の若者がこうして餌食にされて行く。
こうなれば、金策をして対応できるような規模でもない。法的な整理と後押しが必要なケースだ。法テラスに電話して自己破産を視野に入れて弁護士に相談するようにアドバイス。その後、ひと段落ついたところで、ラインで連絡を取り合うことにし、妻とその子とライングループを結成した。そして、わざと「〇〇借金対策自己破産推進室」というグループ名にした。現実を徹頭徹尾知って欲しかったのと、それでも救済の手段は失われていないことを覚えておいて欲しかったからだ。
このグループの名前に大笑いをしながら、「リボって怖い。園長に相談しなかったら、自殺まで追い込まれてたかも…」と。

現実問題として、この電話をもらった時点で「貸すか、貸さないか」だけに終始してしまえば、どっちに転んでも、彼は周囲の人々に返すあてのない借金を繰り返し、最終的には、信用も友人も失い、借金まみれの状態で孤独に落ち込んでしまう。その結果は、良くてホームレス、悪くて自殺。強盗なんていうのも極めて現実的な回答になってしまう。

今の子供達の悲劇の根底には、義務教育が基本教育となっていない現実があると私は思っている。文字は知っている、計算はできる、歴史は知っている。でも、現代の複雑な仕組みを理解しようとしないし、できないと信じ込んでいるよう見える。そして、「(主体的に)生きること」を知らないし、そんなことしなくても生きていけると思い込んでいるように見える。

この国は、誇り高い国であろう。しかし、その誇り高さの反面、影に紛れた落とし穴はひっそりと獲物を狙って口を大きく開けている。
若者を破滅に追いやるのは、借金だけではない。突然の災害や病気、事故、そして対人関係での悩み。最近では労務環境が槍玉に挙げられているのは新聞などで報じられる通りだ。いじめやハラスメントを苦にした自殺が後を絶たない。それらを避けることができたとしても、親や子供といった家族の介護だって同様だ。複雑で余裕のない現代においては、セーフティーネットや福祉リソースの利用が避けられない。しかし、現実は生存のための情報やリソースは日々高度化し、高尚化し続けている。

逆に言えば、泥臭さを忘れた生き様が賞賛される。何事にも理由が必要とされ、細かな約束に緩やかながらしっかりと縛り上げられ、大切な部分から目をそらされ続けながら人生を歩む子供達の姿はさしずめ、目隠しされ、手足を縛り上げられて綱渡りをさせられているように私には見える。一歩踏み外せば奈落の底に落ち込んでしまうことを知らずに、そして周囲に追われていることさえ知らずに生きている若者をよく見かける。自分の生存に関わる部分が脅かされていることも知らずに、更には自分の生活に当然のごとく存在する成病老死からさえも目をそらし、否定しながら生きている姿を垣間見る。

冒頭の問いに戻ろう。義務教育とは一体なんだろうか。成人になるまでに身に受けさせるべき教育のことだろう。成人とは成長期を終えた成体のことを言うのではないのだ。

私たちは、小、中学校時代に一体彼らに何を望み・望まれ、何を教え・教えられて来たであろうかと痛切に反省する。共に生きると言うことはどう言うことなのか、次の世代を育むと言うことはどう言うことなのか、そして自分はなぜ生きていくのかと言うことを考える機会はついぞ与え・与えられて来なかったのではないか。国を構成する一員として数えられるはずなのに、国が備えている福祉リソースやセーフティーネットなど存在はほとんど知らずに学校を終える。そして思い込みだけで突っ走り、辿り着いたその先は破滅まであと一歩というところだったりする。

キリスト教に照らして考えれば、人間が生きるために必要なものをパウロは、信仰と希望と愛の三つだと言った。キリスト教の義務教育はこの3点に集約されるはずだと私は思う。一人一人、それぞれが、自分が召された自覚、周囲の人と歩むべき生き様、そして、周囲の人との支え合いが、教育で伝えられなければいけないものの核心であるべきだと私は思っている。この世界で生きるための力をしっかりと養い、分かち合い、引き継いでいくことのできる存在をキリスト教では成人というのだ。そして、これを一般的には全人教育という。
義務教育とは全人教育であるべきであったし、キリスト教主義公は、この信仰と希望と愛をしっかりと伝え続けなければならないのだ。