存在を否定されるクリスチャントゥデイの恵みと責任、教え子に呼びかけ
存在を否定されるクリスチャントゥデイの恵みと責任、教え子に呼びかけ
クリスチャントゥデイは、あるのに、ないかのように存在を否定されているのです。
私も利用している、『クリスチャン情報ブック』(クリスチャン新聞)には、なんとクリスチャントゥデイについての言及無し。
このような現実での恵みは、存在するのに、軽視されたリ無視されたりする人や事実についてできるだけ記事を書く、ささやかなりとも志を与えられることです。ダンマリたぬきの道を歩みたくない。
私としては、この恵みへの応答としては、個人としてもクリスチャントゥデイ全体としても、できるだけ納得のいく記事やコラムを書き続けることに集中したい、この一事です。
10代の最後に、「教育者としての内村鑑三」を書き、生涯を導かれた者として、今このような状況の中で、「ジャーナリストとしての内村鑑三」を書きたいのです。
ジャーナリストの道とは、内部、外部の違いを簡単に想定しない。キリスト者、未信者も違いの線も、手軽に引かない。「聖なる公同の教会を信ず」とは、そうした人為的な壁を越えた公同性を直視する道と確信しています。
集中すべきは、本来の「人間」、真の神が「真の人間」となられた人間・キリスト。それを何だらかんだらと差別の論理・イデオロギーの論理で覆う動きこそ、論敵と心得ています。
クリスチャントゥデイ事務所を訪問下さる方が一人一人起こされています。
私の教え子でクリスチャントゥデイについてなんだらかんだら言う方々、例えば、朝岡勝先生、クリスチャントゥデイの存在を無視してメディアについて論じるまえに、せめてクリスチャントゥデイの事務所に来て直接見分、対話の時を持たれたらと考えるます。
無理かな。