【論説】平和のための祈り―正義と平和の口づけ 阿久戸光晴

【論説】平和のための祈り―正義と平和の口づけ 阿久戸光晴

★阿久戸光晴先生と私は、キリストあって、少なくとも二つの共通点があります。一つは、同じ開成高校で学び若き日にキリスト信仰に導かれ、今母校の後輩を初め若い人々のため祈り続ける、ぺんけん祈祷会の祈りの仲間です。
 もう一つは、キリストにある生き方の姿勢の共通性です。阿久戸先生は愚直、私は率直と表現します。
 その阿久戸先生が、72回目の8月15道を前に、下記のの表題の論説をクリスチャントゥデイに寄稿下さいました。

2017年8月14日14時46分
【論説】平和のための祈り―正義と平和の口づけ 阿久戸光晴

慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし(詩編85:11)
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
平和、それは私たちの究極の願いです。それは個人だけでなく、社会、国家、そして国際関係において生きる人間の生の永遠の祝福を意味するからです。しかし、平和は正義としっかり結び付かなければ、一時的休戦にすぎないことになるでしょう。
それにしても「正義と平和の口づけ」は現実にはなんと難しいことでしょうか。今日、テロが世界中で頻発しています。それは不正義という現状に満足できない人々による暴力手段による叫びなのかもしれません。
しかし、たとえそうであっても、その事実は私たちの心を痛めます。暴力のもたらす流血は、さらなる流血を呼び起こすからです。まさに「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)のです。
私たちやすべての人々に必要なことは忍耐です。一方、平和を乱す人々をさらに激しい力で押さえつけるだけでは、何ら解決になりません。時の経過とともに、必ずやその一時的「平和」は破局を迎えることになるからです。
正義なき「平和」は平和ならず。また、平和を破壊する「正義」は、さらなる不正義と混乱へ私たちを導きます。それは私たち人間に根源的にエゴという罪が存在し、その罪が不正義と混乱を連鎖的に拡大させるからです。それなら、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
72年前の8月6日に広島、9日には長崎に原爆が落とされ、事実上、日本の敗戦として戦争が終結しました。それは被爆者にとってあまりにむごい犠牲の上にもたらされたものでした。
長崎の被爆者である福田須磨子さんによって書かれた『われなお生きてあり』という書(1968年、筑摩書房。現在ちくま文庫)があります。1人の素朴なカトリック信徒の方が突然被爆しました。全身焼けただれ、寝たきりとなりました。やがて大変な倦怠(けんたい)感が襲ってきました。外なる黒い太陽が内なる黒い太陽となっていました。福田さんは、自身に漂流現象が起き始めたと書いておられます。生きることすべてをむなしいと感じさせ、人格そのものを崩壊させる漂流が起きてきたのです。福田さんは気付きます。他の人々のためにも、流れに逆らって踏みとどまらねばと。あのまま奈落の底へ漂流していっても少しもおかしくないにもかかわらず、福田さんが病の中にあっても抵抗する力を与えたのはどなたなのでしょうか。
米国のバラク・オバマ前大統領は、2009年のチェコプラハでの「核兵器を使ったことのある唯一の核保有国であるゆえ、核なき世界を築く道義的責任を米国は持つ」との演説後、現職中にどうしても広島に(さらにできれば長崎にも)行かなければならないという個人的信念を抱かれていたようです。しかし、その実現は大変難航しました。米国の一般的国民感情があったからです。またそれが、16年5月27日に広島へ降り立ったオバマ前大統領があれほど「なぜ広島へ来たか」を強調した理由でした。
核兵器は、非戦闘員を含め、人を残虐に襲うだけでなく、何世代にもわたって被爆した人々を苦しめ続ける大変な悪魔的兵器です。自然環境や生態系もすっかり変えてしまいます。それなのになぜ核兵器の有効性がひそかに為政者らによっていまだに評価されるのでしょうか。それは、核兵器が持つ「抑止力」が期待されるからです。圧倒的に好戦的な「脅威」に対し、攻撃されたら大変な「報復」が待っていると「警告」することが、先方からの先制攻撃の自制になると考えられるからです。でも、本当にそうでしょうか。抑止力を持つ当方側のセルフ・コントロール体制への懸念(それこそ「脅威」)が軽視されていることはないでしょうか。
日本国憲法前文に次のようにあります。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
しかし、平和を愛さない国家が現れているとして、この「日本国の道義的責任」を安易に放棄することは許されないでしょう。
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23)
わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。(ダニエル4:34)
為政者のために祈る者はいないでしょうか。フェアな批判はいいですが、重責を担う人々のため祈ることも、神を信ずる者、御心を知る者の重要な責任です。
あのネブカドネツァルは、シャドラクたちを火の中に放り込んだ残虐な王であり、また「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、このわたしが都として建て、わたしの権力の偉大さ、わたしの威光の尊さを示すものだ」(ダニエル4:27)と言うほど、神をも顧みない傲岸(ごうがん)な王でした。しかも、「健康に恵まれ、王宮で心安らかに過ごしていた」(1節)のです。
この強力な王が天から一喝され(28〜29節)、政変により「人間の社会から追放され、牛のように草を食らい、その体は天の露にぬれ、その毛は鷲の羽のように、つめは鳥のつめのように生え伸びた」(30節)のでした。
しかし、この試練を通してネブカドネツァルに理性が戻り、天を仰ぎ、神をたたえるに至ります(31〜32節)。こうしてネブカドネツァルは変わり、王国に復帰します。ここに至るまでにシャドラクらの信仰告白と、王の審(さば)きでなく救いのための祈りがあったはずです。
「正義と平和の口づけ」という至難な課題は、国家だけに負わされているのではなく、各個人や教会など、社会団体も背負うべき課題です。しかも私たちには「平和を実現する」(マタイ5:9)使命が与えられています。その使命は具体的には祈りです。
あの福田須磨子さんが見た「内なる黒い太陽」とは、人間の罪の総体です。真の信仰は、戦乱という災厄に直面して「神も仏もないものか」と嘆くより、その災厄の根源を私たち人間の罪に見いだし、心をむしばむ漂流からの抵抗を励ます神を見いだします。
正義ある平和、すなわち人間の罪の克服を伴う真の平和の実現は、私たち人間の力を超えます。それは私たちの祈りに応えて神が完遂されます。私たちのなすべきことは、悪人の審きではなく、責任ある人々が主に立ち帰るための祈りです。こうして、国々に正義とともに平和が、また私たち個々人に罪の贖(あがな)いとともに内なる平安が、必ずや神からイエス・キリストを通して与えられます。

一橋大学社会学部卒業・法学部卒業。東京神学大学大学院博士課程前期修了。神学修士ジョージア大学法学部大学院等で学んだのち、聖学院大学教授。同大学長を経て、2017年3月まで学校法人聖学院理事長・院長兼務。
専門はキリスト教社会倫理学日本基督教団滝野川教会牧師、東京池袋教会名誉牧師。荒川区民として区行政にも活躍。説教集『新しき生』『近代デモクラシー思想の根源―「人権の淵源」と「教会と国家の関係」の歴史的考察―』『専制と偏狭を永遠に除去するために』ほか著書多数。