覚悟に賛同の証印を受ける思い

覚悟に賛同の証印を受ける思い

☆昨夜「舟喜信先生の思い出」を書いたのと時間的に並行するように、溝田先生が以前お送りくださった、ドストエフキー論についての便りを、あるところに再録くださいました。私なりの覚悟に賛同の証印を受ける思いです。

「宮村武夫 先生
宮村君代先生
+主の平安
 ご著書をご恵贈いただきまして、誠にありがとうございました。
 いま、ドストエフスキー論をちょうど読み終わりました。先生の格調高い文章から、ドストエフスキーへの敬愛が伝わって来ました。キリスト教信仰と近代の相克が文学で表現したかった「核心」的課題であるという点の再確認を主張されておられるのは、大変妥当だと思います。この点は、現代の評者たちに「欠落」する傾向があります。ですから、宮村先生にとっては数十年前の「小さな論文」かもしれませんが、現代でも真価は変わっていないはず。ドストエフスキーを読む多くの人ばかりでなく、わが国のロシア文学の「学者」たちに対しても、必読の論文として推奨すべきだと思います。
 もう一冊の論文集は、すべては読んではおりませんが、ギリシャ語のpasを扱った「第一論文」のみはかなり丁寧に読みました。現代の聖書学者の「釈義」のやり方のなかでは、大変古典的な方法ですが、他の学問領域との整合性を提起する上でも、他の論文の内容も含めて、宮村先生の問題提起はきわめて重要だと認めざるを得ません。本来、この第一論文のテーマは、論理学に基礎付けられた言語学の意味論という領域では、「全称量化」の理解の問題であり、必ず対決しなければならない先行研究がいくつかあります。ですから、私としては、宮村先生とは全く別の方法や結論を提唱することになるかもしれませんが、私に時間の余裕が生じれば、ぜひとも対話させていただきたいと考えています。
 お送りいただいたお礼とはいえませんが、拙著と聖書協会での講演会でのレジュメをお送りいたします。私の方法は「旧来の聖書学」とは「いえません」ので、かなり「奇異」な印象を抱かれるかもしれません。しかし、私の結論が妥当かどうかはともかく、個人的直感を排除することを目指す「工学的方法」として「ことば」を扱う領域では、私の著書のような「やり方」で議論がなされていることを、ご理解いただければうれしいです。
 季節の変わり目ですが、お健やかにお過ごし下さい。
2015年1月19日
広島大学大学院総合科学研究科
研究員 溝田悟士」