『芦屋浜通信第149号』藤原信之 2017.8.1

 『芦屋浜通信第149号』藤原信之 2017.8.1

★杉並の神学校寮で出会った50年前も、関西と関東に分かれて住む今も、主にある交わり、感謝。
藤原信之兄は、はがきを活用して福音宣教、感謝。

 
《 「赦し」と「赦せ」が表裏一体でないと》 
 内村鑑三がキリスト伝道の三つを紹介している。 
 ①Sayクリスチャン・言葉による伝道
 ②Doクリスチャン・行いによる伝道
 ③Beクリスチャン・キリスト信者であること。そして③のキリストを信じて喜んで生きていることが最もいい伝道だと言っている。

 あるキリスト信者の紹介。
 「君はそれでもクリスチャンか」とのご主人の言葉に「だからクリスチャンなの」と答えたF姉。
 見事な回答だ。この答えにご主人も教会に行くようになられた由。
 
 聖書では「やろうと思えばできること」をしないのは罪だが、私たちは、朝起きる時から夜寝るまで選択の連続だ。その中で「やろうと思えばできること」を全て実行できる人はいるだろうか。
むしろできないことの山積で、悪い事をした数よりも、はるかに多いはずだ。
そして、それは取り返しがつかないから赦してもらうしかない。

 クリスチャンとは、やろうと思えばできることさえできない山積する罪と、さらに他の諸々の罪をキリストの十字架によって赦してもらっている(現在形)者ということだ。
 イエスさまに赦してもらうしかない「どうしようもない者」、「だからクリスチャン」なのだ。

 しかし、赦してもらっているなら、赦すべき立場に立たされている自分を自覚すべきだと、イエスさまは厳しく指摘しておられる。
 「ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
エスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
 ある王が決済し始めたところ、一万タラント借金している家来が返済できなかった。
 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は自分に百デナリの借金をしている仲間に『借金を返せ』と言った。
仲間は『どうか待ってくれ』としきりに頼んだ。しかし、承知せず借金を返すまで牢に入れた。
 主君は『お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
主君は怒って借金を返済するまで家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたが、兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう。」

 主君に帳消しにしてもらった一万タラントは、16万4千3百83年分の給料に相当する金額。
 仲間に貸していた百デナリは、約4ヶ月分の給料相当額で少額とはいえない。
しかし、赦してもらった分と比較するなら微々たるもの。
 些細なことだから赦せと言われているのではない。
赦してもらっているなら、赦すべきなのがクリスチャン。 

 「だからクリスチャン」と「だから赦せ」が表裏一体でないなら、非情で自己欺瞞の徒に過ぎない。
 「我ら(複数形)に罪を犯す者を、我ら(複数形)が赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」
 赦し合うことがもっと奨められるべきではないか。
 赦すのは簡単ではない。祈りと忍耐と努力が必要だ。

 引用箇所
 マタイ18:21〜35
 マタイ6:12