北海道聖書学院で学ぶ川粼 憲久兄のレポート

北海道聖書学院で学ぶ川粼 憲久兄のレポート

★川粼 憲久兄は、ほとんど毎朝、最初に私からの発信に最初に応答される方で、いつも励まされています。
 今回、その川粼 憲久兄のレポートを掲載できうれしいです。

◎十勝におけるキリスト教アイヌについて1.歴史 (帯広を中心に進む十勝の歴史)
a. 先住民
十勝は、北海道の他の地域と同様、縄文期よりアイヌ民族が多くの集落(コタン)を形成してい た。15世紀頃から和人らとの交易が始まったが、江戸末期、明治維新までには、その独自の社会 は駆逐され、差別を受けながら、和人社会の中に日本人として徐々に同化されていった。

b. 開拓(帯広から音更へ)
1885年、明治期になると明治政府は、帯広の伏古や音更など12か所で、アイヌ人への農業指導を行ない、農地拡大を試みたが失敗に終わった。 1889年、本格的な開墾が、然別に入植した渡辺勝によって行なわれた。他の記録では、1882年の大川宇八郎の入植が最初とされているが、大川はアイヌとの交易が中心であった。
渡辺勝は、十勝開拓の父と呼ばれる依田勉三(後に北海道神宮開拓神社の祭神として祀られる)、また鈴木銃太郎とともに晩成社を結成し、1881年より北海道開拓を目的として来道して、1883年より活動を始めていた。開拓初期は生活が極端に苦しく「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と 称されるほど、客人が豚の餌と勘違いするほどの粗末な食事であった。1892年、北海道庁が帯広を拠点として開拓促進を進めると、帯広を中心に音更にも続々と入 植者が入るようになった。1896年には、音更地区最初の入植者である木野村甚太郎が音更川両岸の土地の貸付を受け、 同年3戸が入植し、音更での本格的な「農場」が始まった。音更にはその後、石川県、富山県、岐 阜県より、災害等で住む場所を失った村民の団体入植が相次ぎ、現在の音更町の広大な平地の開墾 に貢献した。十勝川温泉地区では、多くの入植者が単独で開墾した。それは当時の明治政府も、開 墾を促進する目的で検査を緩和していたためである。開墾は、まず炭焼き小屋が作られ、その後畑を耕し、酪農にも手を伸ばすという手順で進められ た。特に、十勝の気候風土と、広大な平野は、酪農、大規模農業に必要な条件を満たしていた。特 に、その平野面積が最も広かった音更は、十勝の他の土地よりも開墾が早く進んだ。当初は、出身 団体ごとに農場が分かれていたが、必要に応じて、出身地に関わらず合併したり、組み合わせを変 えたりしながら、現在の区画の基となる。このように各々の団体入植者たちによる開墾は、音更の 区画整理にも繋がった。1901年、音更外二村戸長役場の設置によって、音更村は、自治体としての一歩を踏み出した。

c. キリスト教と晩成社(帯広から拡がった十勝福音宣教)
晩成社の渡辺と鈴木は聖公会キリスト者として知られる。渡辺の妻カネもキリスト者であり、鈴木の妹でもある。依田は、19歳の時にスコットランド長老教会の宣教師であり医師でもあった ワデルのもとで、渡辺らと学んだが、キリスト者にはならなかった。1892年、この渡辺夫妻の家庭集会から、十勝のキリスト教宣教の歴史は始まった。依田が事業意欲旺盛であったのに対し、渡辺と鈴木が純粋なキリスト者として、その感化力に優 れていたと言われている。

あるとき、アイヌの食糧貯蔵庫を開墾者が誤って焼失させる事件があった。それが開墾者とアイヌとの間のトラブルに発展してしまい、依田の心ない対応が、アイヌの方々に対し、益々火に油を 注ぐような結果をもたらしてしまった。しかし渡辺と鈴木がキリスト者として誠実な対応をしたこ とでアイヌの方々との和解ができたというエピソードがある。

d.キリスト教の社会への関わり
また、十勝監獄(現帯広刑務所)においてキリスト者が果たした役割は大きい。帯広聖公会は、 帯広を拠点に伝道活動を続けてきたが、十勝監獄職員への説教や、更には受刑者への説教も許され るようになった。1901年に、キリスト者である黒木鯤太郎(日本基督教会所属)が大典獄(刑務所長)となる と、1907年には、長老派(日本基督教会)のピアソン宣教師、土佐の坂本龍馬の甥である坂本 直寛牧師が教誨師として尽力し、十勝監獄のリバイバルのために用いられた。この年のある日曜日、 坂本直寛牧師の説教で、700人を超える受刑者のうち、420人が悔い改め、キリストを受け入 れたという。
また、キリスト教は、教育の面でも十勝に貢献している。1915年、聖公会の信徒、高橋又治 が十勝姉妹職業学校を創設し、現在の帯広三条高等学校の前身となっている。渡辺勝の妻渡辺カネ も、後に共立学園の教師・舎監となった。このようにキリスト教は、十勝の発展と救霊において大きな働きの一端を担った。一方、晩成社と しても本業の分野では、ハム製造を目指して畜産をはじめ、バター工場、練乳工場、缶詰工場の開 業等、現在の十勝に根付く産業の礎を築いたが、何れも経営という面では上手くいかなかった。 1916年、晩成社は、経営不振により活動休止となった。

2.地域と宗教 役場に隣接する音更神社が、もっとも大きな宗教施設である。音更神社は、1900年、仁禮農場内に天照大神を祀る祠を設けたことから始まった。第30代内 閣総理大臣を務めた斎藤実が高額寄付したと言う記録ものこっている。現在も社務所が機能してい たり、定期的に修繕が成されたり、地域によって大切に扱われ、地域のシンボル的印象を受ける。それ以外にも音更町には、密教系の天台宗観音寺や真言宗弘照寺、弘円寺、弘清寺があり、浄土 真宗禅宗が多い他町村との違いを思わせる。また、鈴蘭地区には地蔵(道祖神)が立ち並んでい る場所があり、地域によって、さらに細かな信仰の対象物が存在する。それには、団体入植時、そ れぞれの団体ごとに出身地に基づく、先祖由来の信仰が根付いた現れであると思われる。また近年、 エホバの証人や統一教会などの新興宗教信者も増え始め、その布教活動は活発である。近隣の清水 町では、統一教会が山林を入手し聖地にする問題が起き、地域の住民の反対によって、取りあえず 聖地化はなくなったものの、時々、清水町の人口の2倍以上の信者が集まるような大きな集会を開 いている。しかし、この度の調査の中で、正統的キリスト教信仰の立場へ理解を示す住民がおられることが わかった。晩成社時代からの聖公会による伝道がその背景にあると考えられる。また、100年以 上にも渡る聖公会の幼稚園教育によって、地域の高齢者の中にはその卒園者や関係者が現在も住ん でおり、いまだ地域の歴史にキリスト教が根強く意識付けされていることをうかがい知ることがで きる。

3.地域の宗教と福音宣教
音更町の歴史ある神社仏閣も、町民すべての信仰の拠り所になっているわけではない。地域の文化、慣習として、日本の他の地域と同様に融合している。今後とも既存の寺社が教勢を伸ばすこ とは考えにくいが、エホバの証人、統一教会等のキリスト教異端と呼ばれる宗教団体や、他の新興 宗教が、益々、その活動を強めていくことが予想される。キリスト教会も、現在、十勝にある牧師会の協力関係の中で、世の光ラリー、ラブソナタ等の 伝道の働きを地域教会の共同で行なって来ている。今後とも、良き協力性を保ちつつ、十勝全域を 捉えた福音宣教が進められることが期待できる。そして、農業・酪農業の方々への伝道、幼児、小 学生への伝道、小さな子どもをお持ちの若い主婦層への伝道、既存の地域住民の方々への伝道。 それぞれ、多面的な角度からのアプローチ、または個々に絞った関係づくりのためのプロジェクト を考えていく必要がある。

このように、渡辺勝・カネ夫妻、鈴木銃太郎による入植で始まった、この地域でのキリスト教の評判は決し て悪くはない。彼らをはじめ、多くの先人たちが築いた、キリスト教への信頼という福音宣教の基 盤を、地域の信仰財産として一層、今後の宣教に生かしていくべきである。
出 典:音更町統計、十勝統計、音更町HP、音更町郷土資料館展示物、帯広百年記念館展示物、「使徒は二人で立つ」日本キリスト教会北見教会ピアソン文庫、「日本 北海道 明治四十一年」ピアソン会発行。 インタビュー:音更町役場企画財政部企画課企画調整係、帯広百年記念館、よつば乳業十勝主管工場、帯広聖公会、帯広栄光キリスト教会、十勝めぐみ教会。(文責:川粼憲久)
※2015年伝道実習レポートより抜粋