天田繋先生との思いで、その深まりと広まり その3

天田繋先生との思いで、その深まりと広まり その3

 2002年、3月28日(木)、29日(金)・佐敷シュガーホールでの『長崎殉教オラトリオ』チャリティーコンサート上演。
 これは、2000年沖縄で開かれた第四回日本伝道会議への一つの応答が沖縄からなされたならとの希望が、ことの始まりでした。
 伝道会義が何か単発的で、打ち上げ花火のような印象を持たざるを得なかったのです。歴史を見、歴史の中で生き、歴史を形成する生き方を求める者として、天田先生の『長崎殉教オラトリオ』を沖縄で上演することは、象徴的意味があるのではないか。そのように考え、第四回日本伝道会議の沖縄側委員会の最後の集いで、そのための準備の委員会委員長として、城倉翼先生を選出することを提案、認められたのです。

 その後、城倉先生のリーダシップのもと、「始めは小さく、計画は大きく」(A.シュラッター)の基本に立ち、若い世代を中心とした実行委員会と経験豊かな顧問団により計画が立てられ実行されました。

 雲を掴むようなど素人のたわごとに見える私の提案にもかかわらず、主にある交わりの中から生み出された天田先生の私のような者に対する信頼とそれに基づく決断が、真の原動力でした。
 沖縄における無教会からローマカトリックまでを視野にと、それまでも提唱し続けていた、聖書的エキメニズの提唱実践の機会でした。
 また、沖縄の地に根差す願を持ち、天田先生以外は、沖縄県立芸術大学の学生、卒業性を中心とした出演者と基本方針を確認しました。
 そこで天田先生と二人で、沖縄県立芸術大学の声楽の主任先生を訪問し、経過の報告や趣旨を説明、暖かい理解を頂きました。
 その際、忘れがたい経験をしました。グランドピアノが存在感を醸し出す、研究室、そこの美しい本箱に並べられている本の多くが、直接音楽関係の本ではなく、人間そのものを主題とするものだったのです。
 私がそのことに言及すると、「歌うのは、人間ですから」と、こともなげに言明なさりました。とても深い印象を受けました。

 天田先生のあらゆる面での犠牲で、東京と沖縄の隔てを乗り越え、練習は積み重ねられ、記念すべき、二日間のコンサートは、盛況のうちに終わりました。
 フィリッピンの火災事故への沖縄の教会からのお見舞いと、日本からフイリッピンへ派遣されていた宣教師を通し届けることも許されました。
 そうです。このコンサートを通して、私たちの主にある友情は深まり広まったのです、感謝。