お利巧さんではなく、愚直さ 推定無罪―伝聞証拠を神の前に直接確認する誠実さ 阿久戸光晴

お利巧さんではなく、愚直さ
推定無罪―伝聞証拠を神の前に直接確認する誠実さ 阿久戸光晴
★阿久戸光晴先生と私は、キリストあって、少なくとも二つの共通点があります。一つは、同じ高校で学び若き日にキリスト信仰に導かれ、今母校の後輩を初め若い人々のため祈り続ける祈りの仲間です。
 もう一つは、キリストにある生き方の姿勢の共通性です。阿久戸先生は愚直、私は率直と表現します。
 その阿久戸先生が、上記の表題で以下の文をクリスチャントゥデイに寄稿下さいました。
☆老預言者は、「一緒にわたしの家に来て、食事をなさいませんか」と勧めたが、彼(神の人)は答えた。「一緒に引き返し、一緒に行くことはできません。ここで一緒にパンを食べ、水を飲むことはできません。主の言葉によって、『そこのパンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻るな』と告げられているのです。」しかし、老預言者は言った。「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました」。彼はその人を欺いたのである。その人は彼と共に引き返し、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。
彼らが食卓に着いているとき、神の人を連れ戻した預言者に主の言葉が臨んだ。彼はユダから来た神の人に向かって大声で言った。「主はこう言われる。『あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない』」。神の人がパンを食べ、水を飲んだ後、老預言者は連れ戻したその預言者のろばに鞍を置いてやった。その人は立ち去ったが、途中一頭の獅子に出会い、殺されてしまった。(列王記上13:15〜24)
何とも不思議なエピソードです。イスラエルの南北分裂の時代に、ユダからの「神の人」が北の首都ベテルでヤロブアム王に預言をし、まっすぐ帰ろうとしたところを、ベテルの老預言者に「主の言葉だ」として引き留められますが、それは老預言者の虚偽でした。主は厳しい言葉を発せられ、ユダからの「神の人」は獅子に襲われて殺害されます。
このエピソードは何を私たちに語ろうとしているのでしょうか。ユダの「神の人」はどうすればよかったのでしょうか。直接、神に「確認すること」です。
私たちの社会生活では無数の情報が飛び交います。その中には喜ばしい情報も戸惑わせられる情報もありますが、直接、私たちは主に祈り求め、私たちに与えられている直観的霊性を働かせて、その情報の真偽を調べ、考えることが大切です。たといその情報が「預言者」によってもたらされたものであったとしても。ユダヤ律法でも、今日の刑事法でも、「伝聞証拠 ‘hearsay evidence’ の恐ろしさ」として知られます(伝達者の悪意だけでなく、勘違いや不十分な調査に基づく場合もあります)。
もう1つ新約聖書から。
ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。(使徒言行録17:11、12)
ここでも注意すべきことは、パウロの第2回伝道旅行の一環としてのベレア伝道で、当地のユダヤ人らは「素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ」ていたからこそ、「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」のです。
わが国の常識では、信頼している人からの情報なら、その真偽や正確さを確認せず、調べないことが礼儀でしょう。しかし、ここのユダヤ人たちは、彼らの直観的霊性パウロを信頼していたからこそ、「聖書を日々調べていた」のです。聖書研究の起こりです。そして、真実の信仰が与えられました。
日本国憲法および刑事訴訟法では、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される」ということを意味する大原則が示されています(日本国憲法第31条以下、刑事訴訟法336条など)。これは、「有罪判決が確定するまでは、何人も断罪されない権利を有する」ことを意味し、被告人・被疑者の「無罪推定」または「推定無罪」の大原則と呼ばれ(「疑わしきは罰せず」の原則とも)、国際人権規約にも規定される世界の人権原則の基礎です。
キリスト教世界は、福音という「伝聞証拠」に基づいて信仰の道へ入る場合がほとんどですが、その盲点は「未確認のまま鵜呑(うの)みにすること」であり、その克服は「自らの霊性に基づく『聖書研究』」です。
本紙では、熱心に神の御業の痕跡を見いだそうとする多くの記者たちの血のにじむような取材努力があります。仮に不特定多数の寄付者の中に課題のある団体が混入していたとして、あるいは、これも仮に海外でその団体が設立に関わった経緯があるとしても、その影響下にまったくなく、祈りとともに日々主にあって取材と正確な記事を書く努力をしている人々を拒み、深く傷つけることは、推定無罪の大原則にも反するばかりか、他に理由が見いだせないゆえに、同じ福音に生きる世界にあって、いかがなものでしょうか。
◇阿久戸光晴(あくど・みつはる)
一橋大学社会学部卒業・法学部卒業。東京神学大学大学院博士課程前期修了。神学修士ジョージア大学法学部大学院等で学んだのち、3月まで聖学院大学教授。同大学長を経て、学校法人聖学院理事長・院長兼務。
専門はキリスト教社会倫理学日本基督教団滝野川教会牧師、東京池袋教会名誉牧師。荒川区民として区行政にも活躍。説教集『新しき生』『近代デモクラシー思想の根源―「人権の淵源」と「教会と国家の関係」の歴史的考察―』『専制と偏狭を永遠に除去するために』ほか著書多数。