2017年パウロ会、その2


2017年パウロ会、その2

★父に洗礼を授けてくださった、故鈴木勉司祭は、私の開成の先輩であり、
父が大好きな浅草、そこの串カツさんのママであった鈴木司祭の姉上に客として出会い導かれて、遠いい青梅キリスト教会ではなく、冬木町の聖救主教会に出席するようになったのです。
 父ばかりでなく、私たち家族、特に末弟三郎牧師が鈴木司祭の指導と影響を受けました。
 鈴木司祭の以下の証言が伝えられています。

私の十五年戦争

  • 『平和を祈る夕べ』 証 言 -

司祭 鈴木 勉

 1945年3月10日、それは私が最も強烈に、そして直接的に15年戦争を体験した日でした。

1945年は大変寒く雪の多い日でした。
3月9日から10日にかけての東京大空襲は、一晩で十万の死者を出したと言われています。
当時中学校入試直前であった私は、一応それなりの受験準備の勉強をしていましたので、夜中に警戒警報が鳴っても、母は最後のぎりぎりまで私の勉強をさまたげないようにしてくれました。
空襲警報が一時解除され、今晩の空襲は大したことはないと布団に入ろうとした瞬間に、
ラジオから
 「房総半島沖合に多数B29を発見」
という東部軍管区情報が鳴り響きました。

当時の子どもたちの誰もがそうであったように、普段の訓練どおり暗闇の中で衣料を着用し身支度を整え、家族はそれぞれ部署につきました。
といっても私は六年生の子どもですから何の役割もなく、玄関の地下に掘られた防空壕に受験関係の資料を持って入ることでした。

その頃になると、もうすでに米軍機の爆撃は始まっていました。
焼夷弾は、最終的に地上に落下する時には直径15センチメートル、長さ40センチメートル位の六角形の筒となり、地上で炸裂するのですが、B29から投下される段階では、それは何十本とまとめられ、円筒形の大きな爆弾のような形態で投下されるのです。
それが空中で一本一本に分かれるのですが、防空壕で聞いていると、遠来の雷のように、またトタン板を叩く豪雨のようにザーッと大音響を伴って、一面に降ってくるのです。

地上に落下した瞬間は3〜5メートル位はね返って、それは見事な花火のようで、少し離れて見ている限りはきれいな見物でした。
それを眺めてどのくらい時間がたったのでしょうか。
私は玄関を飛びだして、広い道路の四つ角の真ん中に落ちた焼夷弾を一生懸命消していました。

そこへ父親の大きな叱声が響きました。
 「勉、馬鹿者、道路の真ん中には他に燃える物はないのだから消さなくていいんだ、家に戻って来い。」
すぐ裏に間借りしていた義兄は、自分が間借りしている建物に落ちた焼夷弾を、必死で消していたと思いますが、もう既に連絡は取れませんでした。
すぐ上の姉は三階のベランダに出て、屋根に落ちたり隣家との間に落ちた焼夷弾を、知らせたり消したりしていました。
そして彼女も自分でいつ退避するかの判断を委ねられていました。
ただ避難所はラシャ場の西側の原っぱと申し合わされていました。
父は玄関から母を階下に呼び下ろしました。
母は何としたことか、買い置きでまっさらの座敷箒をかかえて降りてきました。
又父の馬鹿者が炸裂しました。
 「家が焼けてなくなるのに座敷箒を持って逃げてどうする。」
誰もが無我夢中でした。
父は玄関で母と私に
 「先に逃げろ。ラシャ場の西側でなく、千住大橋を越えて足立区宮本町の正和自動車の樽沢のところへ逃げろ」
と言いました。
何故ならばラシャ場の方へ向かう千住間道は既に火が回っていて、千住大橋方面は風下で火の気がなかったからです。
この時母が猛然と反対しました。
 「駄目です。風上に逃げなくちゃ。」
おそらく父も、この時非難の鉄則を忘れ、動転していたにちがいありません。
もし風下に逃げていれば、樽沢邸はもとより北千住一帯はその後火の海になったことを考えると、無事に千住大橋を越えられたかどうか疑問に思います。
千住間道に逃げる前に、鎖に繋いであった秋田犬のタロを解放しました。
 「また戻ってこいよ。」

母と私は布団をかぶって12、3メートル幅の千住間道の片側の二階長屋が焼けて崩れ落ちるような状況の中を、道路の反対側に寄りそって少しでも熱を避けるようにしながら避難しました。
それでも、途中で布団を外側から抑えている手が、軍手の中で燃えるように熱くなったので、その熱を避けてその布団を内側から支えるようにしなければならないほどでした。
その布団もラシャ場の原っぱに着く頃には表面が燃えはじめようとしていました。

当日使われた焼夷弾の種類は油脂焼夷弾、避難の途中の道端の防空壕を覆っているそのものが青白い炎を立てて燃えているのが印象的でした。
母と二人はラシャ場の原っぱにやっと逃げおおせました。
風が出てきました。
東京の下町を焼きつくす紅蓮の炎を映すその煙の合間から、突如響くB29の爆音とその傲岸な機影に、朝まで不安な時を過ごしました。
その原っぱには大勢の人が避難してきていました。
父や姉や義兄の情報を多くの人に求めました。
結局、全員が再会し無事を確認できたのは翌日の夕方でした。
今は跡形もなく焼け落ちてしまっているけれども、焚き火の残り火のように燃えくすぶっているわが家の焼け跡に家族がそろって戻った時、そこにタロはいませんでした。

とりあえず姉が代用教員をしていた舎人国民学校の教え子のご家庭に家族全員が一週間ほどお世話になり、足立区内に小さな家を借りて、妹も集団疎開先から一足先に帰京させ、他の焼け出された家族と同居で住まうことが出来るようになりました。

義兄は焼け出されてから旬日を出ずして召集令状を受け、直ちに島根県浜田の連隊に入隊し、義兄のお世話になっていた姉は、とりあえず足立区は安全だというので母子ともに義兄と入れ代わりに東京に戻りました。
しかし結局足立区も安全でなくなり、父を除いて一家全員が島根県に行くことになり、困難な輸送事情のもと一世帯の荷物をまとめ出発した日が皮肉にも敗戦の日、8月15日でした。